モンセラートの「天国への階段」:故エスタニスラウ・マリア神父はなぜ日本へ来たか?
モンセラートの天国への階段
みなさん、こんにちは。
何事も何かを成し遂げる前、それもその直前の頃が最も楽しい。そう後で分かる。しかし当人にとってみれば、その頃が最も苦しい時でもある。
物理学者でも一番最初の論文を始めて書き上げるまでが大変で、その頃では永久に論文なんぞだせないのではないかと心配したり、早くしないとだれかに先を越されるのではないかと心配したりと大変な気苦労をするものである。もちろん、私自身もかつてそうだった。
しかしながらひとたびそれを超えるとだんだん慣れて当たり前になってくる。そうなると、ルーティーン・ワークのようにして次々と論文を出すこともできるようになる。すると、徐々に最初の頃の新鮮味や真摯さを忘れてそれが当たり前だ。自分は選ばれた人間なのだというような奢り昂ぶりまで出てくる始末となる。
そういう時こそ「初心忘るべからず」なのである。が、我々人間はなかなかそうできないもどかしさがある。
おそらく、保江邦夫博士の場合もそうだったであろうと思う。
さて、保江邦夫博士の
「唯心論武道の誕生」
を読了したのだが、この本はあるスペイン人神父様に捧げられた。
その神父さんは広島の山中に隠遁して修行をしていたために、保江博士は「隠遁者様」と呼んでいる。
その神父様の名前は、
故エスタニスラウ・マリア・ヨパルト神父様
である。
ところで、この亡き神父様の経歴を見つけたので、これもここにもメモしておこう。以下のものである。
隠遁者エスタニスラウ・マリア神父の略暦
1915年9月12日
エスパレゲラ(バルセロナ)で生まれる 洗礼名はアマデオと名付けられた
1920年
4才半で、聖母マリアに足の障害を癒される 5才で、も一度聖母マリアは現れて、ご自分とともにモンセラート修道院に入るようにと呼ばれる その時から召命は修道者、隠遁者、司祭、宣教者になることを少しずつはっきり決める 子供時代には教会でいろいろな活動をする
1927年
12才で、病気のとき、イエズスが現れてご自分のもとに呼ばれた 同時に人々の救いのために尽くすように言われた 再び病気が癒されていた。
1928年8月5日
モンセラート志願者の学院に入会する
1933年
修練院に入る。修道名はエスタニスラウ・マリアと頂く
1934年6月
御心の祭日にイエズスが現れて、ご自分を愛していない人のかわりに、愛のいけにえとなってほしいと言われた
1934年8月6日
初誓願
1936年7月18日
スペインの内戦 キリスト教に迫害 モンセラートから脱出 修道院の23人殉教 一年間親の家へ避難 その後バルセロナの信者の家に避難
1937年12月8日
スペインを去りフランスへ向かう.2週間のあらしに船が流される
1938年1月
ベルギーの聖アンドレの修道院長に受け入れられる ベルギーで神学の勉強を続ける
1939年1月15日
隠遁者になるゆるしを頂く
1939年1月17日
ベルギーのMaredsous 修道院で荘厳誓願 春に内戦が終わります モンセラート修道院は再開する
1939年9月
モンセラートにもどる 第2次世界大戦始まる
1941年8月10日
モンセラートで司祭に叙階される
1941−1961年
修道院の共同体の中で神学院の教育者、 マリア学、教父学、典礼学などの研究 スペインとローマのマリア学のアカデミーからメンバーに任命される
1961年2月7日
腎臓の手術を受ける 深い命と死の経験の悟り
1961年4月27日
許しを得てモンセラートの聖母の洞窟で隠遁生活を始める
1961-1965年
霊的な師父としてますます外部からも求められる 第2バチカン公会議典礼委員会のメンバーに任命される
ある11月15日
タボル山の光のビジョンの経験を神からいただく
1965年9月14日
モンセラート山にある聖十字架の庵に引っ越し
1965−1972年
霊的な師父としてますます外部からも求められる 第2バチカン公会議典礼委員会のメンバーに任命される
1967年5月
モンセラートから、聖地、日本、帰天までに,ついて来た弟子は初めて出会い、エスタニスラウ・マリア神父はその師父となる
1970年9月29日
この弟子はモンセラート聖山で隠遁生活を始める
1972年12月14日
師父は聖地にむかいバルセロナからスペインを去る
1972年12月24日
ベツレヘムへ到着、近くのベイットサホゥルの洞穴で隠遁生活を続ける
1973年8月15日
弟子はは聖地に到着。師父に新しい名前は任命意される
1974年7月1日
師父は若いでしとともに三人でイスラエルから日本に向かう道中でインドのリシケスを伺う
1974年7月21日
日本に到着
1974年9月29日
隠遁生活を野崎島、舟森で始める すぐ、一人りずつ、3人スペインからついてくる。その中にもう一人の弟子、ポルトガルの隠遁者マヌエル神父
1975年3月26日
弟子の荘厳誓願
1978年7月11日
この時までに、姉一人とブラザー二人は、ヨーロッパに帰る
1978年9月15日
台風で船森の庵が壊される
1978年9月29日
舟森をでて、中通島、福崎の古い家で隠遁生活を続ける
1984年6月
中通島 大浦へ引っ越し
1986年9月6日
広島県へ引っ越し、庵はモンセラートの聖母・四方庵と命名
1996年
白内障手術に続き、骨折1ヶ月半入院
2000年6月
腎臓悪化
2003年2月21日
四方庵を去って大阪からモンセラートへもどる
2003年3月29日
モンセラート修道院で帰天 平和と感謝に約まれて聖山にある修道院のお墓で葬られた。
この舞台であるモンセラート山(意味は「のこぎり山」)の麓にモンセラート修道院があるという。最近ではYouTubeでモンセラートの山をみることができるので、それもメモしておこう。以下のものである。
Montserrat モンセラット
隠遁者様ことエスタニスラウ・マリア神父様は、イエス・キリストから
「自分の身代わりになってほしい」
と言われたのである。そして、イエスの教えを世に伝えるべく隠遁生活を送ったのである。
おそらく何度も病気から神様の力で癒やされたことから、それに対して忠誠を尽くしたものと思われる。
エスタニスラウ・マリア神父が弟子(たぶん)と二人で保江博士のいうところの「荒行」をしていた場所がこのモンセラートないしはモンセラット修道院であったという。炭粉良三さんはその荒行の映像を数十年前に日本のテレビ番組で見たというのであった。そんなことが「合気私考」に書かれている。
その修道院はこれである。
スペイン旅行 バルセロナ 〜モンセラート修道院〜
スペインに行くとサッカーのバルセロナやレアル・マドリードのことばかりが頭に入るが、霊峰モンセラート山も行ったらいいのではなかろうか?神の降りる場所である。ルルドの泉の如く神に癒やされる人もいるのではないだろうか?
問題は、つまり私にとっての疑問は、
なぜ神父は神様から日本へ行けと言われたのだろうか?
ということである。
やはり、保江邦夫博士と出会う予定調和、連鎖調和のためだったのだろうか?
それとも、イエスの言葉を忘れてしまった西洋人世界を離れて、まだ合気道という形ではあるがイエスの精神に最も近い精神を残している我が国こそイエスの教えを守るものがいると考えたからだろうか?
そのあたりが分からない。
しかしながら、保江邦夫博士の行動言動を観察する限りにおいては、保江博士はクリスチャンではない、炭粉良三さん自身においては、自分は無宗教者だといって合気道を始めたわけだが、「合気開眼=愛魂開眼」という面においては、まさにモンセラート修道院ですらたった2人しか荒行(=我が国の武道や合気道に相当)していなかったにも関わらず、我が国ではたくさんの人たちが合気道に励んでいることから考えれば、まさにこの日本こそ、日本人こそもっともイエス・キリストの精神に近い世界で生きている人間が多い国であるという感じもするわけである。
それゆえ、イエスはモンセラートで荒行していたエスタニスラウ・マリア神父に向かって日本へ行くように指示したのではなかろうか?
合気道こそ、イエスの荒行にもっとも近いのである。
他の柔道や空手は単なる格闘技にすぎず、精神性においては獣道に近くなってしまった。韓国や朝鮮人や支那人はいわんやをや。論外である。動物にはイエスの言葉は無関係。
とまあ、そんなわけで、本当に合気道関係者の中からもっともイエスの教え、マリア様の精神に近いものを身につけた偉大な、というより、崇高な日本人が登場してくるのではないか。
どうもそんな感じがする今日このごろなのである。
確かに合気道の稽古というのは、柔道や空手やボクシングのように相手を戦いで打ち負かすことに終始する、そのための筋トレをするというような物理道ではない。むしろ、合気揚げ、愛魂揚げというように、相手を静かに無力で上げる技の習得を目指しているようである。
このことからしても物理的に持ち上げる世界から精神作用で持ち上げる、一種の超能力開発を毎日毎日修業しているのが合気道、特に冠光寺眞法流ということになる。
まさにエスタニスラウ・マリア神父がモンセラート山の修道院でリカルト神父様と毎日やっていたことと同じである。
日本は深いですナ。やはり「神国日本」である。