第4章:試作車「VW3」と「VW30」の完成
1936年春、ヒトラーのところへ電話がかかってきた。
「できました!」
ポルシェ博士の声である。
「総統のお望み通りの車が完成しました。
どんなロードテストにも耐えるでしょう。
たとえ水のなか、吹雪のなか、炎熱の酷暑、どこへ持っていっても故障なし。
マス・プロ(大量生産)にすれば、値段もお望み通りのところまできます!」
どんなロードテストにも耐えるでしょう。
たとえ水のなか、吹雪のなか、炎熱の酷暑、どこへ持っていっても故障なし。
マス・プロ(大量生産)にすれば、値段もお望み通りのところまできます!」
この自信に満ちたポルシェ博士の言葉を聞いて、ヒトラーは笑みをこぼしたという。
●完成したばかりの試作車VW3の走行テストが入念に行われた
「VW3」の成功を望んでいなかった「RDA」ではあったが、「RDA」のメンバーが
「VW3」を徹底的にテストした結果、どこにも否定的な問題点を見い出すことができず
むしろ次の段階へと駒を進める必要が生じたのだった。
「VW3」を徹底的にテストした結果、どこにも否定的な問題点を見い出すことができず
むしろ次の段階へと駒を進める必要が生じたのだった。
ポルシェ博士が作った試作車「VW3」
5万kmにも及んだ厳しいテストをパスした結果、
5万kmにも及んだ厳しいテストをパスした結果、
フォルクスワーゲン誕生の機運は急速に高まっていった。
●翌年、さらに改良を加えた試作車「VW30」が30台完成し
苛酷な走行テストがナチス親衛隊(SS)により大規模に行われた
苛酷な走行テストがナチス親衛隊(SS)により大規模に行われた
総計241万kmに及ぶ「VW30」の走行テストは、ナチスの
親衛隊によって昼夜兼行で行われた。当時としては異例中の
異例とも言える苛酷なテストだった。この走行テストは国家的な
機密に属し、一般人が撮影することは厳しく禁じられたという。
※ 「VW30」は「VW60」としてさらに30台製作された。
●この苛酷な走行テストについて
日本航空学会会長の佐貫亦男氏は次のように語っている
日本航空学会会長の佐貫亦男氏は次のように語っている
「VW30計画と称するフォルクスワーゲン実用走行試験の総費用は3000万マルク以上
すなわち価格950マルクのフォルクスワーゲン3万台分といわれる。
すなわち価格950マルクのフォルクスワーゲン3万台分といわれる。
自動車史上これほどテストに費用をかけた前例はなく、今後もありえないであろう。
普通はこの10分の1以下である。
フォルクスワーゲンの欠点を除くための費用だけでも、通常の新車開発費に相当したという」
普通はこの10分の1以下である。
フォルクスワーゲンの欠点を除くための費用だけでも、通常の新車開発費に相当したという」
ある自動車評論家は次のように述べている。
「この走行テストの試乗者は、ナチス親衛隊(SS)から200名が選抜された。
わざと素人のドライバーを選んだのは、素人が運転して起こりうべきミスやその他の誤ちにも
耐えうるかの試験をするためであった。
テスト本部をコルンウェストハイムのSS営舎におき、1937年から1938年の冬にかけて
30台の車が一斉にスタートしたのである。それはまことに壮観といってもいいテストであった。
「この走行テストの試乗者は、ナチス親衛隊(SS)から200名が選抜された。
わざと素人のドライバーを選んだのは、素人が運転して起こりうべきミスやその他の誤ちにも
耐えうるかの試験をするためであった。
テスト本部をコルンウェストハイムのSS営舎におき、1937年から1938年の冬にかけて
30台の車が一斉にスタートしたのである。それはまことに壮観といってもいいテストであった。
1台の走破距離が8万470km、従って、このテストでは241万4100kmが
試乗されたのである。またこれまでに消費された資金は3000万マルクであった。
おそらくこれほど大がかりな自動車テストというものは、古今絶無といってもいいだろう。」
試乗されたのである。またこれまでに消費された資金は3000万マルクであった。
おそらくこれほど大がかりな自動車テストというものは、古今絶無といってもいいだろう。」
ともにドアは後ろヒンジでリア・ウィンドウがない
第5章:最終試作車「VW38」の完成
●ポルシェ博士の息子フェリーは自伝の中でヒトラーについて
次のような印象を述べている
次のような印象を述べている
「ヒトラーは一旦、興味を持ち始めると、基本的にもまた、細部についても、彼の理解力は
驚嘆に値するほど速かった。
驚嘆に値するほど速かった。
ナチズムそのものは、私の考え方とは真っ向から対立するものだった。
けれども、人間の行動という点から公平に言うならば、ヒトラーの“ビヘイビア”(ふるまい)は
正確そのものといわざるを得ない。
特に、父に対する態度でみるかぎり、そう認めざるを得ないような気がする。
けれども、人間の行動という点から公平に言うならば、ヒトラーの“ビヘイビア”(ふるまい)は
正確そのものといわざるを得ない。
特に、父に対する態度でみるかぎり、そう認めざるを得ないような気がする。
金ピカのにわか将官の側近連中とは違ってヒトラーは決して傲慢な態度をとらなかった。
側近の多くはホウロウ材質で表面を幾分似せていたようだが、頭脳の中身はまったく
異質のもののようだった。
側近の多くはホウロウ材質で表面を幾分似せていたようだが、頭脳の中身はまったく
異質のもののようだった。
ヒトラーは、決して、愚問を発したり、的外れの質問をしない。まったく逆だ。
勉強には苦労を厭(いと)わないのだった。
勉強には苦労を厭(いと)わないのだった。
だから、一生懸命になって父のフォルクスワーゲンを理解しようと努力していた。
技術的に細部にわたって多種多様な質問をしてくるのだった。その質問は全て的を射ていた。
ヒトラーは、ある箇所を変更させるつもりだったらしいが、それにもかかわらず
メジャー・チェンジを提案しなかった。
確かに質問の内容から判断して、技術的に細部にわたって相当研究しているように見えた。
技術的に細部にわたって多種多様な質問をしてくるのだった。その質問は全て的を射ていた。
ヒトラーは、ある箇所を変更させるつもりだったらしいが、それにもかかわらず
メジャー・チェンジを提案しなかった。
確かに質問の内容から判断して、技術的に細部にわたって相当研究しているように見えた。
ポルシェ博士と息子フェリー
息子フェリーも優秀な技術者だった
●1937年に開かれたベルリン・モーターショーで
ヒトラーは恒例の大演説を行った
ヒトラーは恒例の大演説を行った
この開幕式の演説の中でヒトラーは、「フォルクスワーゲン」の開発が順調に進んでいることを
強くアピールした。
強くアピールした。
フォルクスワーゲン(国民車)の模型を見ながら語り合うポルシェ博士とヒトラー
●開幕式が無事に終わるとヒトラーは会場内を視察し
「オペル社」のブースに来た
「オペル社」のブースに来た
ヒトラーが来るのを待ち構えていたヴィルヘルム・フォン・オペル(「オペル社」の社長)は
満面に笑みを浮かべてヒトラーに近づき、「オペル社」が独自に開発した大衆車を示しながら
うやうやしくヒトラーに話しかけた。
満面に笑みを浮かべてヒトラーに近づき、「オペル社」が独自に開発した大衆車を示しながら
うやうやしくヒトラーに話しかけた。
「マイン・フューラー(わが指導者)、ご覧下さい。
これこそ、わがドイツのフォルクスワーゲン(国民車)でございます!」
●「オペル社」のブースに華々しく展示されていた車を目にしたヒトラーは、さっと顔面を紅潮させた。
そして彼は唇を引き結んだまま、くるりと回れ右をすると、足早に立ち去ってしまった。
これはヴィルヘルム・フォン・オペルにとっては予想外の出来事であった。
オペルはヒトラーがいかに自分のメンツにこだわる人間であるか知らなかったのである。
オペルはヒトラーがいかに自分のメンツにこだわる人間であるか知らなかったのである。
この「無言劇」は、間接的にポルシェ博士にとってプラス(追い風)となった。
「RDA」に参加していた「オペル社」の親会社はアメリカの「GM」だった。
オペルは、当時ヒトラー構想の車を作りうる工場施設は、アメリカ資本の
「オペル社」と「ドイツ・フォード社」にしかないことをよく心得ていた。
そのため、オペルたちは自分たちの計画にヒトラーが快く応じるだろうと計算していた。
そのため、オペルたちは自分たちの計画にヒトラーが快く応じるだろうと計算していた。
しかし、それはとんでもない「誤算」だった。
この件に関して、あるジャーナリストは次のように述べている。
「オペル社では、かねてからポルシェ博士が“国民車”を作るというので、なんとかして出し抜いて
やろうと考えていた。これは親会社のアメリカのGMの意向でもあった。
そのことで、GM副社長のムーニーがヴィルヘルム・フォン・オペルを激励にわざわざ
ドイツまで来たくらいである。
やろうと考えていた。これは親会社のアメリカのGMの意向でもあった。
そのことで、GM副社長のムーニーがヴィルヘルム・フォン・オペルを激励にわざわざ
ドイツまで来たくらいである。
オペル社は“オペル・フォルクスワーゲン”というのを試作して、ひそかにコストダウンを
研究していたのだ。
1000マルク以下の小型車は、ポルシェ博士の天才をもってしても到底出来っこないことを
知っていたので、少しでも安い車を作ってポルシェ博士の鼻をあかせてやろうと
ひそかな努力を続けていたのである。
研究していたのだ。
1000マルク以下の小型車は、ポルシェ博士の天才をもってしても到底出来っこないことを
知っていたので、少しでも安い車を作ってポルシェ博士の鼻をあかせてやろうと
ひそかな努力を続けていたのである。
1937年に開かれたベルリン・モーターショーで起きた“小事件”は
ヒトラーの熱願であるフォルクスワーゲンの大量生産を急速に具体化させる契機となった」
ヒトラーの熱願であるフォルクスワーゲンの大量生産を急速に具体化させる契機となった」
●オペルの件で大いに自尊心を傷つけられたヒトラーは
既存のメーカーに頼ることなく全く独立した組織で
フォルクスワーゲンの生産に当たらせることを決心させた
既存のメーカーに頼ることなく全く独立した組織で
フォルクスワーゲンの生産に当たらせることを決心させた
オペルとの「無言劇」の数日後、ヒトラーは「ドイツ労働戦線(DAF)」の指導者であった
ロベルト・ライと検討を重ね、その結果、この車の生産計画は「ドイツ自動車工業連盟(RDA)」
の手を離れ、「DAF」直属の組織に移管することが決定し「フォルクスワーゲン準備会社」
という国有組織(国策会社)が生まれたのである(1937年)。
ロベルト・ライと検討を重ね、その結果、この車の生産計画は「ドイツ自動車工業連盟(RDA)」
の手を離れ、「DAF」直属の組織に移管することが決定し「フォルクスワーゲン準備会社」
という国有組織(国策会社)が生まれたのである(1937年)。
※ 翌年に会社名は「フォルクスワーゲン製造会社」に変更された。
(左)「ドイツ労働戦線(DAF)」のシンボルマーク
(右)「ドイツ労働戦線(DAF)」の指導者ロベルト・ライ
「ドイツ労働戦線(DAF)」は、ドイツの労働者階級を組織
するための機関で、1933年に既存の労働組合組織を強制解散して創設された。
この機関の長は敗戦までロベルト・ライが務めた。
この機関の長は敗戦までロベルト・ライが務めた。
(戦後、彼は「ニュルンベルク裁判」を受ける前に自殺してしまった)。
●1938年最終生産型プロトタイプ「VW38」が完成
1938年に作られた最終試作車「VW38」
「VW38」は1938年に44台作られ、「VW3」、「VW30」と
同じく985ccのエンジンが搭載されていた。この「VW38」はその
外観・内容ともにどこから見ても後のVWビートルそのものであった。
※ 「VW38」にはリムジーネ、ソフトトップ、カブリオレの
3タイプが用意された。また「VW38」は「VW39」
として1939年に50台製作されている。
続く
? ヒトラーとナチス "捏造と真実"
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