神戸の超人 坂本廣志氏

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NO 8486

アメリカの極秘文書が伝えるヒトラーの意外な素顔|||●中国発の“疫病”が変えた地球史  

アメリカの極秘文書が伝える ヒトラーの意外な素顔  


タカシ記

画像はヘブライの館2さんのページに載っていますのでそちらを参照してください。

本文の内容からヒットラーが世間で言われるような極悪の人物ではなくて、彼に出会った人々が誰もが認める素晴らしい人格と才能を持った 超天才であったことが推察できます。

坂本廣志氏によると彼は宇宙人の世界でも認められる軍事の天才であり、宇宙人の世界でも、宇宙船に乗って攻めてくる悪い宇宙人の種族を撃退する 役目を遂行しているそうです。

ヒットラーはドイツでは単なる画家であったのですが、事故により両目が見えなくなってしまったらしいのです。

ところが、ヒットラーが"あいつ"と呼ぶ存在の声が聞こえて、「ドイツの総統になってくれたら、目を見えるようにしてあげる」と言われて その条件と交換で、彼はドイツの総統になったそうです。

ヒットラーはドイツ敗戦の時に地下壕で自殺したと言われていますが、死体はヒットラーのものではなく替え玉だったようで、ヒットラーは すぐに宇宙人にどこかに連れていかれて宇宙人の世界で活躍していたようです。

そういうことを考えると、どうも地球の人類の歴史は、宇宙人によってその時々に人類の指導者となる人物を 与えられてきたのかもしれません。

ユダヤ教・キリスト教・イスラム教などの教祖も宇宙人であったのでしょう。

だから彼らは未来が分かったということなんですね。

未来が分かることが、人類の指導者の必須条件なのかもですね。

多数の人々を信じさせるには、未来を予言して、その予言が的中するのが一番てっとり早いということでしょうか。

坂本廣志氏も2020年には氷河期が来ると言われています。

ところが4月になっても日本では氷河期らしき兆候が見えません。

しかし、2020年の夏頃までには、急に寒くなると坂本廣志氏の予言は信頼できるということになります。

今急に思いついたのですが、ヒットラーは人々の前で、なぜ"あいつ"とヒットラーに話しかける存在について呼称したのでしょうか?

あいつなんて言えば、その存在は卑しむべき存在としか想像できません。

もし"あいつ"を"あの方"と呼べば、"あの方"は神様と説明しても、人々は納得してくれるのに わざと"あいつ"と言っています。

ということは、ヒットラーは死んだと人々に思われてから、100年以上もの間、ヒットラーは狂人であったと思われないといけないという事情が宇宙人側の 思惑のなかにあったのかも。

アメリカの極秘文書が伝えるヒトラーの意外な素顔(ヘブライの館2さんより)

▼にヒットラーの画像が多数紹介されています。

ヒットラーの予言


アメリカの極秘文書が伝えるヒトラーの意外な素顔



No.a6fhc611

作成 1998.1

 

アメリカの極秘文書が伝える
ヒトラーの意外な素顔

 

 

●一般にヒトラーは「キ○ガイ」の代名詞であり、“20世紀最大の悪魔”とも称せられる。

ヒトラーは性的変質者で睾丸がひとつしかなかったなどとまことしやかに言われ、彼が精神異常者であるという印象はごく自然に多くの人に受け入れられている。

ナチスの迫害を受けていた精神分析学の創始者であったユダヤ人ジークムント・フロイトは、ヒトラーを「狂人がなにをしでかすか予想できない!」の一言で片付けてしまったように、

ナチス敗北後、多くの精神医学者もヒトラーを「精神病」と見なしてきた。

 


ジークムント・フロイト

「精神分析学」を創始した
オーストリア生まれのユダヤ人。
1938年にナチスに追われてイギリスに
亡命したが、翌年、ガンで亡くなった。

 

●SS長官ヒムラーのマッサージ師ケルステンは、「ヒトラーは脳梅毒(進行麻痺)であった」という噂を流した。

しかし、ヒトラーの主治医モレルは1940年の梅毒検査でヒトラーは陰性であった、とヒトラーの脳梅毒説を否定している。

 


アドルフ・ヒトラー

 

●ところで、アメリカの国家記録保存所には「ヒトラーのメディカル・レポート」が保管されている。

これはアメリカ陸軍ヨーロッパ司令部情報部によって作成されたもので、1972年になってようやく極秘取り扱い解除されたものである。

それによると精神面に関するデータは次の通り。


【A】.時間、場所、人間に関しての認識 = <優>

【B】.過去、現在における出来事についての記憶力 = <優>

【C】.数字、統計、名前などの記憶カ = <優>

【D】.ヒトラーのバックグラウンドは大学教育の欠如というハンデがあったが、
    それを彼は読書を通して得た莫大な知識で十分に補った。

【E】.時間や空間についての判断力 = <優>

【F】.まわりの環境に対する反応 = <ノーマル>

【G】.気分が変わり易いところもあるが、平均して協調性があり、集中力は抜群

【H】.感情的には変化し易い。好き嫌いがはげしい

【 I 】.思考構造は一定の継続がある。話し方は早くなく遅くもない。
    常につじつまの合う話をする。

【J】.ヒステリー性はなし、健忘症なし。

【K】.妄想や恐怖性なし。

【L】.幻覚、幻想、偏執狂的徴候はなし。



●これを見る限り、ヒトラーという人間はごくノーマルであるばかりでなく、ある面では普通の人より秀れていたということになる。

アメリカ政府はこの情報を1945年に得ていたのだが、27年間極秘扱いとして誰にも見せなかったのであった(一説にはヒトラーのIQは150近くあったという)。

 


1972年になってようやく極秘取り扱い解除された
「ヒトラーのメディカル・レポート」

 

●以下、参考までに、戦後のニュルンベルク裁判の法廷で、ナチス要人が語ったヒトラー像を挙げておたい。

この3人とも誇り高きドイツ貴族出身の軍人であり、貧民街から登場したチョビひげの政治家に、最初から心服していたわけではなかった。しかしヒトラーは、そんな人物まで相手の専門分野の知識で圧倒し、やがてはその人格的影響下に置いてしまったようである。


◆ドイツ海軍最高司令官カール・デーニッツ大将は語る。

「ヒトラーは異常な知性と行動力を持ち、まさに普遍的といってよい教養と力を放射する性格をそなえ、恐るべき暗示力をもった人物だった。

私は総統本部に出入りしないほうが、自分の力を温存できるような気持ちがしたので、たまにしか足を運ばなかった。それに何日も総統大本営に滞在したあとは、ヒトラーの暗示力を洗い落とさなければならないという感じがした」


◆ヴィルヘルム・カイテル元帥は、ヒトラーの軍事知識に驚嘆している。

軍事問題についての知識は驚くべきものがあった。ヒトラーは世界の全ての陸海軍の組織、武装、指導部、装備に精通しており、ひとつといえども誤りを指摘することはできなかった。

したがって我々は、あの人は天才にちがいないと思ったのだ。軍の単純なありきたりな問題ですら、自分は教えるほうではなくて教わるほうであった」


◆国防軍最高司令部部長アルフレート・ヨードル大将も語る。

「ヒトラーは並々ならぬ大きさを持った指導者としての人格をそなえていた。誰と何について議論しても彼の知識と知性、雄弁と意志が最後には勝利を占めた。

論理と冷静な思考、しばしば来たるべきものを予知するその不思議な能力──。

彼は決して虚言や大言を弄するだけの男ではなく、巨大な偉人であった。最後には地獄的な巨大さにまでなってしまったが、ともかく1938年までは無条件に偉大な人物だった」

 

 

 


●また、敵味方を問わず「ドイツ軍最高の軍人」、もしくは「20世紀最高の戦略能力の持ち主」と評されていた、ドイツ国防軍のエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥は、ヒトラーとたびたび衝突して、ヒトラーに批判的だった。

しかし、彼ですら次のように認めている。

「ヒトラーは驚くべき知識と記憶力、技術問題と軍需のあらゆる問題についての創造的な想像力を持ち合わせていた。敵や自国の新兵器の威力、生産量についても信じがたいほどの知識を持っていた。

彼が軍需の分野で、その理解力と並外れたエネルギーをもって、多くのものを推進したのは間違いない」

 


ドイツ軍最高の名将と名高い
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン

 

●以上、世間で一般に流布されているヒトラー像とは違うヒトラーの実像が見えてきた。

しかし、ヒトラーが精神的にそれほどおかしな人間でなかったのならば、一体、彼をあそこまで駆り立てたものは何だったのか? 大きな疑問が残ってしまう。

ワーナー・メイザーという高名なヒトラー研究家は次のように言っている。

「ヒトラーの反ユダヤ主義が、いかに展開し継続していったかを概観して説明するのはさほど困難ではない。

しかし、なぜヒトラーのような並外れて我意が強く、才能があり、数多くの書物を読み、広い知識を持っている人間が、このような恐るべき迷信(反ユダヤに到る考え)に囚われてしまったのかという問いに答えることは容易ではない」

 

  

 

●ちなみに、ヒトラーの側近であった者たちは、ヒトラーの大きな「欠点」のひとつとして、彼が何を考えていたのか皆目わからなかったという点を挙げている。

心の奥底を明かさない人間を、どうして『知っている』と言えようか」と、ヒトラーの側近の1人はニュルンベルク裁判でヒトラーについて語っている。

さらに、「私は今日になっても、彼が、何を考え、何を知り、何をしようとしていたのかがわからない。それが何であったのかは、私が考えたり想像したりできるだけなのだ」と述べている。

 

 

●「ヒトラーに友人がいたというのなら、私は間違いなくその1人だろう──」。ヒトラーの側近の1人としてきわめて多くの時間を彼と過ごしただけではなく、彼のもっとも興味を引いた分野、建築学における気に入りの仲間であったアルベルト・シュペーアはこう語っている。

「ヒトラーほど感情をめったに表さない人間はいない。それに、いったん表したとしても、すぐさまそれを覆い隠してしまうのである」

 

 
アルベルト・シュペーア

建築家出身で、建築好きのヒトラーに
気に入られ、1942年2月に軍需大臣に任命された。
合理的管理組織改革によって生産性を大幅に向上させ、
敗戦の前年の1944年には空襲下にも関わらず
最大の兵器生産を達成した。

 

●アルベルト・シュペーアはまた、ヒトラーと打ちとけられたと感じられる瞬間についても、かつて副官ルドルフ・ヘスが口にしていた言葉通りだったと証言している。

「我々はやっぱり幻滅せざるをえなかった。私たちのどちらかが少しでも親しげな調子で話そうものなら、ヒトラーは直ちに厚い壁を造りあげてしまうのだ……」

 


ひとり静かに物思いにふけるヒトラー

 普段はナイーブで内気な性格だったという…

 

●青年時代のヒトラーの唯一の親友だったアウグスト・クビツェクも、次のように語っている。

「アドルフ(ヒトラー)は内向的な性格で、誰にも立ち入らせない精神領域を常に持っていました。彼には理解不能な秘密があり、私にとっても多くの点は謎のままでした。

しかし、その秘密のいくつかを解く鍵がありました。それは美への熱狂です。ザンクト・フロリアン修道院のような壮麗な芸術作品の前に立つと、私たちの間のあらゆる障壁が崩れ去るのです。熱狂しているときのアドルフはとても打ち解けやすくなり、私は友情がさらに深まったように感じました」

 

  
(左)青年時代のアウグスト・クビツェク(ヒトラーの唯一の親友だった)
(中央)戦後、ヒトラーとの交際について回想録をまとめるクビツェク
(右)出版された彼の回想録『我が青春の友 アドルフ・ヒトラー』

 

●ところで、あのエヴァ・ブラウン(自殺直前にヒトラーと結婚)も、日記に次のように記している。

「ヒトラーは時々、異常なほど内気になる。きっと過去の嫌な体験からきているのだろうと思うけど、あの人の内気さは普通じゃない。とくに人前に出ると、内気な自分を悟られまいと必死になっている。

私にはそれが手に取るように分かる。トイレに逃げ込みたくなるほどおびえているのかもしれない。どうしてあれほど自制するのだろう? うぶな娘のように振る舞うのだろう?」

 


エヴァ・ブラウン

 

●また、彼女は「ヒトラーはとにかく謎めいている。何かを隠そうとしている。そこがとても薄気味悪い」と記している。

彼女によれば、1937年冬のある日、ヒトラーは目をギラギラと輝かせながら、「天才と狂人」について次のような謎めいた話をしたという。

天才は普通人とは異なる精神領域で生きている。天才はときどき普通人の精神世界に舞い戻る。だが、もし戻れないと、普通人の目には狂人に見えるのだ。ヘルダーリンやネロのように。天才はたいがい限界というものを感じない。危険というものを感じない。

私は自分を知っている。シェークスピアが自分を知っていたように。彼の十四行詩を読めば、それが分かる。シェークスピアは2つの領域を行ったり来たりした。穏やかな人物でありながら、それをやってのけた。情熱的な私なら、難なく2つの領域を行き来できる」

※ エヴァ・ブラウンは日記の中で、この時のヒトラーの眼はとても薄気味悪く輝いていて、まるで燃えているようだった。本当にこの時のヒトラーの表情には背筋がぞっとしたと記している。

 

青年時代からヒトラーの存在感は強烈だったらしく、彼を
記憶する人々は口をそろえて、その異様な雰囲気を描写している。

「射るような眼」 「催眠術師の眼」 「狂気に近い異様に澄んだ眼」などなど…

 

●ところで、エヴァ・ブラウンは同じ日記の中で、ヒトラーの意外な一面を書いている。

彼女によると、ヒトラーは「美容」に関して専門家を驚かせるほどの知識を持っていたそうだ。

水曜の夜。私は本当に感心してしまった。なにしろ、スパルタ気質のあの人が美容師に、どうやったら女は若さと美しさを保てるか、と延々と説いていたのだから。とにかく、美容についての知識の深さにはびっくりした。

この前、私はあの人から化粧クリームをもらった。それが効くのかどうか、私には分からない。でも、あの人からもらった以上、絶対に使い切らなければならない。それにしても、クリームといっしょに渡されたあのメモには本当に目を疑ってしまった。なにしろ、週に二度は仔牛の新鮮な生肉で夜の洗顔パックをすること、週に一度はオリーブオイルの風呂に入ること、もっとも大切な部分はバストとヒップ、と書いてあったのだから。

たしかに、あの人は美容の専門家だと思う。達人とさえ呼べる。

〈中略〉

私はこの頃しみじみと思う。あの人の言うことは何でもかんでも正しくなる、と。

たまに変に思えたりするけど、結局、それが変じゃなくなる。人々があの人を信じるから、そうなるのだろうとは思うけど、もしあの人が、太陽は地球の周りを回っている、と宣言したら、どうなるだろう。やっぱりドイツ人たちはみなすぐに信じるのだろうか……」(エヴァ・ブラウンの日記/1938年1月)

 

 
(左)アドルフ・ヒトラー
(右)「突撃隊(SA)」司令官レーム

レームはヒトラーの最も古くからの同志で、
ヒトラーと肩を並べるほどの実力を持っていた。
レームはヒトラーに向かって「ドゥ(おまえ)」と
呼ぶことが許されていた唯一のナチ党員であった。

しかし、レーム率いるナチスの「突撃隊(SA)」が
急速に力をつけ、「ドイツ国防軍」との間に深刻な摩擦
を起こし始めると、ヒトラーはこの対立問題が権力基盤の
危機を招くと判断し、レームとSA幹部らを粛清した。

※ この「長いナイフの夜」と呼ばれる「レーム事件」
 により、ヒトラーは「国防軍」との関係を修復した。

 

●かの有名な「レーム事件」(長いナイフの夜)を題材にした戯曲『わが友ヒットラー』(新潮社)を書いた三島由紀夫は、巻末の「自作解題」でこう述べている。

「『わが友ヒットラー』は、アラン・ブロックの『アドルフ・ヒトラー』を読むうちに、1934年のレーム事件に甚だ興味をおぼえ、この本を材料にして組み立てた芝居である。〈中略〉

粛清後、ヒトラーが不眠症にかかり、心労の果てにやつれたというのは実話のようで、まだ『人間的な』ヒトラーがヒトラーの中に生きていた時期の物語である。

国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬというのは、政治的鉄則であるように思われる。そして一時的に中道政治を装って、国民を安心させて、一気にベルト・コンベアーに載せてしまうのである。何事にも無計画的、行きあたりばったりな日本は、左翼弾圧からはじめて、昭和11年の2・26事件の処刑にいたるまで、極左極右を斬るのにほぼ10年を要した。それをヒトラーは一夜でやってのけたのである。

是非善悪はともかくヒトラーの政治的天才をこの事件はよく証明している」

 

 
(左)三島由紀夫 (右)彼が「レーム事件」を
描いた作品『わが友ヒットラー』(新潮社)

 

●そして彼は続けてこう述べている。

「ずいぶんいろんな人に、『お前はそんなにヒトラーが好きなのか』ときかれたが、ヒトラーの芝居を書いたからとて、ヒトラーが好きになる義理はあるまい。正直のところ、私はヒトラーという人物には怖ろしい興味を感ずるが、好きか嫌いかときかれれば、嫌いと答える他はない。

ヒトラーは政治的天才であったが、英雄ではなかった。

英雄というものに必須な、爽やかさ、晴れやかさが、彼には徹底的に欠けていた。ヒトラーは、20世紀そのもののように暗い……」

 

 


 

■■おまけ情報


●戦後、連合軍がナチ戦犯心理テストを行った結果、驚いたことに彼らナチス高官たちは知能的には非常に優秀で、一部の幹部に関しては天才並みの突出した知能指数(IQ)を有していたことが判明したのである。

 

 
連合軍による「ニュルンベルク裁判」の様子(1945年11月)

この国際軍事裁判はナチスの党大会の開催地だったニュルンベルクで開かれた。
史上初の「戦争犯罪」に対する裁判で、12名のナチス高官に死刑判決が下された。

 

しかしこれは同時に「知能の高さと倫理的観念の間には関連性がない」という事実も明らかになったといえよう。

一般に「知能の高さ」とは「情報を処理する能力の高さ」であり、知能が高いからといってもその人が高潔で爽やかな人格の持ち主とは限らないのである。


●ある心理学者によれば、飛び抜けた知能の持ち主は感情や主観を切り離して思考するため、普通の人からは「冷酷な人」とか「不愉快な人」というネガティブな評価をされることがあるという。

また、普通の人とは会話が成立しにくくて大勢からの理解や共感も得にくく、小さい頃から変わり者扱いされて孤独を味わうケースが多く、いつも人間や社会の欠点や矛盾点がたくさん目についてしまうため、不満やストレスを溜め込みやすく一般社会では生きづらく感じる人が多いという。


●さらに知能が高い人の特徴として、自分が興味のある事柄に関してはどんどん学習し、他の人よりも遥かに深いところまで学んでしまえるが、自分が興味のない事柄に関してはとことん無関心で、無理に学ぼうとしても集中力や学習意欲が極端に落ちてしまうことが多いという。(青年時代のヒトラーはまさにこのような傾向が色濃く出ていた)。

そのため、他人からすれば重要な問題であっても、本人にとって興味や必要性がなければ何度聞いても全く覚えていなかったり、そもそも聞いていなかったりすることもあり、その結果、仕事や日常生活、人間関係などに支障が出ることさえあるという。


このようにIQが高いからといっても全てのことに対して優れているわけではないし、「社会不適合者」として不遇の人生を送る場合もあるので、IQだけでその人の全てを判断するような真似はせず、ひとつの参考程度に捉えておくのが賢明といえよう。


※ 参考までにナチ戦犯の知能指数を載せておきたい↓
(ちなみに日本の東大生の平均はIQ120)


<ナチ戦犯の知能指数>


■IQ143 ヒャルマー・シャハト

■IQ141 アルトゥル・ザイス=インクヴァルト

■IQ138 ヘルマン・ゲーリング

■IQ138 カール・デーニッツ

■IQ134 フランツ・フォン・パーペン

■IQ134 エーリヒ・レーダー

■IQ130 バルドゥール・フォン・シーラッハ

■IQ130 ハンス・フランク

■IQ130 ハンス・フリッチェ

■IQ129 ヴィルヘルム・カイテル

■IQ129 ヨアヒム・フォン・リッベントロップ

■IQ128 アルベルト・シュペーア

■IQ127 アルフレート・ローゼンベルク

■IQ127 アルフレート・ヨードル

■IQ125 コンスタンティン・フォン・ノイラート

■IQ124 ヴァルター・フンク

■IQ124 ヴィルヘルム・フリック

■IQ120 ルドルフ・ヘス

■IQ118 フリッツ・ザウケル

■IQ113 エルンスト・カルテンブルンナー

■IQ106 ユリウス・シュトライヒャー


The Nazi Defendants in the Major War Criminal Trial in Nuremberg
https://famous-trials.com/legacyftrials/nuremberg/meetthedefendants.html

 

 


 

青年ヒトラーの人生 〜「芸術家」から「政治家」の道へ転進〜


意外にも評価が高かった初期のヒトラーの政治手腕


ヒトラーの日本観と日独交流秘話

 


 


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中国発の“疫病”が変えた地球史  


タカシ記

伊勢雅臣氏講演会内容



Subject:  中国発の“疫病”が変えた地球史


[4月12日 LIVEセミナー開催]


伊勢雅臣の
国際派日本人養成講座 LIVE
世界に誇る「和の国」の根っこ
“根っこ”が育む自由と人権 編


「民主主義は西洋からの輸入品という
考えは一種の”自虐史観”だった!?」


*講座の参加募集は4/11(土)まで

[a:https://in.powergame.jp/iskni2_2003_gene?cap=merumaga]詳しくはこちら


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


中国発の疫病が変えた地球史

from 伊勢雅臣


中国発の疫病は史上、何度も世界に広がり、
地球史そのものを変えてきた。

コロナウイルスは広がる一方ですが、
平成15(2003)年に流行した
SARSよりも大きな問題に発展しそうです。


中国発の疫病はいままで何度も全人類を襲い、
地球史そのものを変えてきました。
今回もその可能性があります。

以下の記事はSARS流行の際に
書かれたものですが、主張点はそのまま現在に通用します。


是非、ご一読ください。


■1.SARSは「封じ込められた」だけ■

7月5日、世界保健機関(WHO)は
新型肺炎(重症急性呼吸器症候群=SARS)に関し、
最後に残っていた台湾に対する
「流行地域」指定解除を発表した。


これによって死者812人、
感染者8439人もの猛威をふるった
SARSは世界全体で「制圧」されたと
マスコミ各社は報道した。


しかしこの「制圧」とは、
新型肺炎が絶滅したという意味ではない。


WHOの発表の原文では
"the global SARS outbreak has been contained
(SARSのグローバルな爆発的流行は封じ込められた)"
であり、SARS自体はいまだ脅威として
残っている事を意味している。


これを「制圧」と訳したのでは、
あたかも人類がSARSの脅威から永久に
解放されたような錯覚を与えるもので誤訳に近い。


WHO は例年インフルエンザが広まる冬季に、
新型肺炎が再流行する恐れが十分あるとして、
引き続き警戒を呼び掛けている。


インフルエンザ・ウイルスやSARSを
引き起こしたコロナ・ウイルスなど
呼吸器感染症を起こすウイルスの多くは、
寒くて乾燥した環境を好み、冬季に流行する。


インフルエンザ・ウイルスは
夏の間はヒトの体内で軽い症状の感染を
繰り返しながら潜み、冬を待っているという。


コロナ・ウィルスも夏の間に
ひそかに感染者を広げ、
冬にまた猛威を振るい始めるという
可能性が十分あるのである。


来シーズンもSARSが中国でぶり返したら、
どうなるだろうか。


今シーズンは百十数カ国が中国人の
入国ビザ停止など中国隔離政策をとった。
今度はそれ以上に厳しい措置がとられるだろう。


しかし歴史を辿れば、
中国発の疫病が世界にまき散らされ、
地球史を大きく変えたというケースは
何度も見られるのである。


■2.中世ヨーロッパを襲ったペスト■

8世紀頃に約2700万人だったヨーロッパの人口は、
その後、順調に増大して1300年には
7300万人にまで膨れあがった。


しかし1348年にペストが大流行し、
わずか3年間で人口の三分の一を失うにいたる。


健康な人間が伝染病で次々と
倒れていく様を見た人びとは、
今まで信じていた神に懐疑的となり、
これが宗教改革のきっかけとなった。


この時のペストがどこで発生したかについては
諸説あるが、もっとも有力な説は
中国の南宋王朝で流行し、南宋と戦っていた
モンゴル軍へと伝染したというものだ。


チンギス・カーンの孫で南宋征討を行っていた
モンケ・カーンはその途上でペストにより病死している。


モンゴル帝国はアジアの大半から
ヨーロッパにかけて広大な領土を占有し、
その支配下で中央アジアのステップ地帯を横断する
東西貿易が盛んになった。


その交易品の中にペスト菌を運ぶ
ネズミがいたのであろう。
ペストは西アジアからクリミア、ベネチア、
北アルプスを経て、ヨーロッパ全体に広がった。


シルク・ロードは疫病の通り道でもあったのである。


モンゴル帝国は1200年から1350年に
最盛期を迎えたが、その後、弱体化し分裂していく。


中国においては1368年、
朱元璋が中国華南地域を統一し、明王朝を建てた。


モンゴル帝国が衰退した理由の一つに
異常気象とそれに伴う飢饉、
ペストの大流行が挙げられている。


1200年には1億3千万人だった中国大陸の人口は、
1393年には6千万人と半分以下になってしまった。


■3.相継ぐ中国発の疫病大流行■

モンゴル帝国による元朝を駆逐して
新たな支配者となった明朝は1644年に滅亡するが、
その原因の一つになったのがやはり疫病の大流行であった。


明朝末期の萬暦・崇禎(1573年〜1644年)に、
華北地方ではペストや天然痘が猛威を振るい、
少なくとも1千万人の死者が出たという。


同時に飢饉が続き、
民衆が共食いをしたという記録が残っている。
各地で農民が反乱を起こし、
流民・流賊の移動がさらに疫病を広げる結果となった。


その混乱をついて満洲族王朝・清が1644年に
中国本土に侵入して征服したが、
順治18(1661)年の人口はわずか2460余万人だったという。
明王朝最盛期の三分の一でしかない。


1820年には広東でコレラが大流行し、
翌年には北京にも広まった。今回のSARSと同じ経路である。


その直後、1822年10月から11月中旬に
コレラは初めて日本に上陸し、全土に広まった。


経路については2つあり、
中国との貿易拠点である長崎経由で伝わったという説と、
朝鮮から対馬経由で入ったという説がある。


いずれにしろ、日本は鎖国中であったが、
わずかな隙をついて、中国発のコレラに襲われたのである。


19世紀末には雲南省で発生したペストが中国全土に広がり、
広東省から香港を経由し、船でサンフランシスコに伝染し、
全米に流行した。インドでも600万人が死亡した。


この時、香港は英国の統治下にあったが、
英国側の調査に対して、香港の衛生担当者は
「ペストなどありえない。雨がふれば大丈夫」
と答えている。


情報隠しも今回とまったく同じである。


■4.地球規模のウィルス感染■

1918年秋、全世界で「スペイン風邪」
と呼ばれるインフルエンザが猛威をふるった。


世界で6億人が感染し、
死者は2千万人から4千万人と言われる。


日本でも2300万人以上が感染し、39万人が死亡した。
米国での死者は、南北戦争と
第二次世界大戦の戦死者よりも多かった。


「スペイン風邪」という名称から、
スペインが発源地と誤解されやすいが、
スペイン王室の一員がこのインフルエンザにかかって
新聞に報道されたことから、
この名称が使われるようになったらしい。


そもそもは1918年5月末、
フランスのマルセイユで流行し始め、
半月ほどの間に第一次世界大戦の
西部戦線でにらみ合っていた
両軍兵士たちの間に蔓延した。


一説ではマルセイユの前にインドで発生していて、
インド─マルセイユ間を行き来する
船に乗る人々によってフランス南部に
持ち込まれたと言われる。


そしてインドには中国・広東省から伝染した
という説が多くの学者によって支持されている。


別の説では中国人労働者から
米国内の米軍人が感染し、
彼らがマルセイユ経由で欧州に
派兵させられたことによって
西部戦線に広がったという考え方もある。
この説でも発生地は中国と考えられている。


20世紀に入ってから、ウィルスによる感染症の
地球規模の大流行は3度あった。


このスペイン風邪と、57年のアジア風邪、
68年の香港風邪である。


いずれも中国発のインフルエンザだと言われている。
こうしてみると今回のSARSは中国発の
地球規模のウィルス感染としては、
20世紀に入ってからでさえすでに4度目と言える。


■5.清浄の思想を持たない中国人■

なぜこのように中国が様々な疫病の
発源地となるのだろうか?


2の著者・黄文雄氏はこう説く。


中華文明は黄河の濁流から生まれた。
そこから、穢れを忌避しない
儒教のドグマ(教義)ができあがった。


そして、中国人は文明が誕生したときから今まで、
変わることなく清浄の思想を持ってこなかったのだ。


その結果、世界でもっとも不衛生で
不潔な国ができあがったのである。


かつて日本に留学し、
軍隊生活も経験した蒋介石は、
日本人の生活の規則正しさと清潔さに驚いたという。


蒋介石は、中国人はどこでも構わず痰を吐き、
家の中は掃除もしない。食事は立ったままで、
野菜の切れ端や残飯はあたりに撒き散らかされ、
足の踏み場もないほどだ、と嘆き、
1930年代に「新生活運動」を鼓舞して、
日本に学ぼうとした。


しかし、数千年来の生活習慣は、
一時的な精神運動で変わるはずもなかった。


現代中国においても、蒋介石が嘆いた有様は
まだまだ続いている。筆者が広東省にある
日系企業の工場を見たときの事である。


その工場には女子作業者のための
5階建ての立派な寮があるのだが、
その隣にある平屋の建物の屋根には
残飯がたくさん散らばっていた。


驚いて日本人社長に聞くと、
寮の女子作業者たちが食べかすを
窓から投げ捨ててしまうのだという。


見つけたら罰金をとるなどして
一生懸命にしつけようとしているが、
なかなか直らないと、その社長は嘆いていた。


工場では一生懸命に働き、
また田舎の父母に仕送りをしている
感心な女の子が多いのだが、
勤勉や親孝行という徳目はあっても、
「清浄」という思想はないようだ。


日本でも最近は随分マナーが悪くなって、
道路でのタバコや空き缶のポイ捨てが
目立つようになったが、
さすがに自分の家の窓から残飯を
外に投げ捨てる人はいない。


■6.近代化とは?■

シンガポールは中国系の住民が大半だが、
清潔で美しい街である。それもそのはず。


たとえばタバコの吸い殻を路上に捨てると
150シンガポールドル(約1万2千円)、
バスからゴミを捨てたら1000ドル(約8万円)、
その他、痰を吐いても、
公衆トイレを流し忘れても罰金が科される。


黄文雄氏は、中国人には「清浄」の観念が
欠如しているので、衛生向上のためには
法によって厳しく罰する以外、手がないのだ。
と主張している。


シンガポールは蒋介石が志した新生活運動を
厳罰によって成功させた事例と言えるが、
もう一つの成功例がある。


日本統治時代の台湾である。


清朝時代の台湾は
「瘴癘(しょうれい、風土病)の地」
とも呼ばれ、毎年のように数千名の
コレラ患者が発生していた。


台湾平定時の日本軍は戦死者164名に対し、
病死者が実に4,642名という有様だった。


内務省衛生局長から台湾の民政長官に
抜擢された後藤新平は疫病予防は
上下水道の設置から始まるとして、
大規模な上水道と、パリの下水道にならった
排水路を建設した。


これらの上下水道は東京よりも
ずっと早く完備したと、
台湾の人々は自慢にしていた。


また主要道路は舗装して深い側溝を作り、
汚水雨水の排出を速やかにした。


ほとんど都市の形をなしていなかった台北では
大都市計画を実行し、整然とした清潔な
市街を作り上げた。


さらに伝染病を抑えるために、
台湾医学校を設立して、多くの台湾人医師を育てた。


こうした努力により、台湾では
日本と同様の近代的な公衆衛生インフラが
築かれたのである。


しかし日本の敗戦によって
台湾に入ってきた国民党軍は、
再び疫病を持ち込んだ。


1946年にはコレラ、ペスト、
翌年には天然痘が大流行した。
いずれも日本統治時代に絶滅していた疫病である。


この時は国連の指導と救援で、
なんとか疫病撲滅に成功した。


近代化とは、目に見える高層ビルや
空港を作ることばかりではない。
現代のシンガポールや日本統治時代の
台湾のように上下水などの衛生環境、
検疫予防、医師の育成から民衆の
生活習慣改善まで地道な
公衆衛生インフラの整備が必要なのである。


今回のSARSの流行を見ても、
大陸中国ではこうした地道な努力が
欠如していると言える。


■7.「東亜の病夫」■

こうした公衆衛生インフラの欠陥により、
中国は国外に疫病をまき散らしてきたのだが、
国内での不健康状態も日本人の想像を絶する。


揚子江流域は、
世界最大のB型ウィルス感染地帯であり、
感染者は1億人を超えている。


農村では6千万人から1億人の
住血吸虫患者がいる。


WHO(世界保険機構)の資料では、
首都・北京でさえ、人口の5割は
寄生虫保卵者であるとしている。


そのほか肺結核感染者が4億人いると
中国の衛生省が発表している。
さらに栄養不足や環境悪化からくる
カルシウム不足が深刻化しており、
1億5千万人が歯の病気、
骨疎症にかかっていると言われている。


またエイズにいたるHIV感染者・患者数は、
2001年末の中国の公式報告では
3万736人だったのが、


突如、上方修正され、02年上期では
すでに感染者・患者数は100万人を突破、
「対策が不十分だと、2010年には
感染者は1千万人に達する」との予測が
発表された。


これらに比べるとSARSの被害などは
ほとんど無視できるレベルのものだ。


ただ海外諸国が大騒ぎをして、
中国の経済発展に直接的な
ダメージを与えたからこそ、
中国政府は真剣な取り組みをしただけで、
現実には中国国民はそれ以上に
深刻ないくつもの病気に脅かされているのである。


戦前の中国は「東亜の病夫」を自認していた。
今は病気で弱っているが、
いずれ健康になれば「眠れる獅子」が
目覚めるのだという一種の強がりであると同時に、
もう一つ、疫病、風土病に悩み続けている国、
という意味もあった。


現在、沿岸の都市部こそ経済的に
「眠れる獅子」は目覚めたが、
後者の意味での「東亜の病夫」は
まだまだ続いている。


■8.「適度の距離」■

日本はもっとグローバリゼーションを
推し進めなければならない、と多くの人が言う。


そしてグローバリゼーションとは
無条件に良いものと我々日本人は
受け止めやすい。


中国崇拝、欧米崇拝の伝統があるからである。


グローバリゼーションの始まりの一つが、
モンゴル帝国によって中国大陸から
ヨーロッパまでの東西通商が
盛んになった事であるが、
この時に同時にペストが中国から
シルクロードを通って中世ヨーロッパに運ばれ、
壊滅的打撃を与えた事を考え合わせねばならない。


光あれば影ありという
我々の常識を思いだそう。


グローバリゼーションにも当然、
影の部分がある。


「14億の巨大市場」
「安価で良質、無尽蔵の労働力」
に魅せられて日本企業の中国進出が続き、
日中の経済は史上かつてないほどに
一体化しつつあるが、


無数の「東亜の病夫」との一体化までは
何としても避けねばならない。


日本列島は中国大陸とは日本海で隔てられ、
遠からず近からずの「適度な距離」にある。


吾らが父祖はこの適度な距離を利用して、
巧みに中国文明の中から文字、仏教、
儒教、書画、茶などの良い部分のみを
選択的に輸入し、同時にアヘンや宦官、
戦乱など悪しきものは頑なに拒んできた。


グローバリゼーションが声高に
叫ばれる現代こそ「適度な距離」という
伝統的な叡智を思い起こすべきであろう。


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<著者紹介>
伊勢 雅臣


1953年東京生まれ。
東京工業大学 社会工学科卒。
日本の大手メーカーに就職後、
社内留学制度により、
アメリカのカリフォルニア大学
バークレー校に留学。


工学修士、経営学修士(MBA)
経営学博士(Ph.D.)を取得。
生産技術部長、事業本部長、
常務執行役員などを歴任。


2010年よりイタリア現地法人社長。
2014年よりアメリカ現地法人社長を歴任。
イタリアでは約6千人、
アメリカでは約2.5万人の外国人を束ね、
過去最高利益を達成するなど
成果を上げてきた。


これまでの海外滞在はアメリカ7年、
ヨーロッパ4年の合計11年。
駐在・出張・観光で訪問した国は
5大陸36カ国以上に上る。


1997年9月より、
社業の傍ら独自に日本の歴史・文化を研究。
毎週1回・原稿用紙約15枚の執筆を22年間。
正月休み以外は毎週続け、
発行したメールマガジンは1148号を超える。


筑波大学等でも教鞭をとり、日本の未来を担う
「国際派日本人」の育成に尽力している。


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