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第12回特番坂本塾・5 弁慶がジンギスハン
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でぼおさんの質問→ジンギスハンは源義経だったという説がありますが。
坂本廣志とポン太のQ&A集では、ジンギスハンは義経ではなしに弁慶でした。
先生のお答え→そう、弁慶だった。
でぼおさんの質問→その時にワームも絡んでいて弁慶は力を発揮したという話しがありましたが、このへんを詳しく教えて ください。
先生のお話では、弁慶は北海道に行ってアイヌの・・・ 先生のお答え→弁慶と義経と二人でアイヌの戦士を集めて2年間訓練させて。
でぼおさんの質問→弁慶と義経さんは 仲が良くて2人でいつも行動していたんですね。
先生のお答え→2年間北海道にいた理由は 静御前がそこへ来てくれると思っていた。
ところが静御前は、あそこでとっつかまっていた。
あそこというのは、義経の兄貴のいる鎌倉でとっつかまっていた。
義経の赤ちゃんは海へ連れて行かれてそこで溺れ死にさせられた。
義経は静御前に会いたいのは分かっていたけれども、石川県の安宅( あたか) の関 せき で義経ではないかととがめられた時に義経は弁慶にボカボカに殴られたので、そこで 助かった。 そして関所を通り抜けて、北海道まで逃げていった。 そこで200人くらいの北海道のアイヌを訓練した。 でぼおさんの質問→この時には弁慶は ワームに感染していたのですか? 先生のお答え→感染していた。 その時義経は石川県の安宅( あたか) の関であちこちどつかれたから、 骨がいっぱい折れていた。 でぼおさんの質問→手加減無しですねぇ。 先生のお答え→手加減無し。 骨が肋骨からあちこち折れていたから、弁慶がむこうへ行ってジンギスハンに 成り上がった時に、むこうのモンゴルの女の人との間に弁慶にも義経にも子供ができた。 子供にしたら自分の父親がジンギスハンやからジンギスハンが占領した土地を 全部もらえると思っていた。 ところが占領した土地は、義経の子供に譲ると言われて、弁慶の子供は怒った。 でぼおさんの質問→ジンギスハンというのは 弁慶が成っていたのですね。 先生のお答え→そう。 弁慶はジンギスハンとなって各地を攻略して行ったが、その間、義経は弁慶に 関所であまりにどつかれて 骨がいっぱい折れていたので、後遺症で元気に歩けずに寝ていた。 全てを義経の子供に譲ると言われた弁慶の子供は怒って、弁慶に戦やと言った。 その時、弁慶は「自分一人でおまえの軍勢を全滅にしたる!」と言った。 弁慶は三本ヤリの着いたロケット花火を一杯並べて、向こうから馬に乗って攻めてくる 息子やその兵士を全滅させた。 でぼおさんの質問→弁慶は 義経にあくまでも忠誠を誓って、義経の子供に占領したモンゴル全土を譲ったんですね。 ところが義経の子供がたよりなかったんやな。 やっぱりジンギスハンの子供に譲っておいたほうがよかったんや。 でぼおさんの質問→やっぱりワームに 感染すると戦闘の能力は凄いんですね。 先生のお答え→うん。 でぼおさんの質問→弁慶さんは 義経を立てて立派だったんですね。 先生のお答え→そうや。 でぼおさんの質問→ それで中国の歴代王朝には元がモンゴル帝国と同じ時期にありますが 元とは源氏の源を意味しているんですか。 先生のお答え→それは違うみたいやね。 ジンギスハンすごいもんね。 ロシアからイスラムまで広大な土地を全部支配したもんね。 でぼおさんの質問→世界最高の領土を統治した支配者 だったんですね。 先生のお答え→そのモンゴル帝国の次に、 日本の軍隊が二番目に世界を統一したんや。 日本の地図は小さく見えるが、本当の日本は大きい。 韓国の大きさは北海道と同じ。 イギリスは大国と言っているけど、日本の本州と同じ。 でぼおさんの質問→ワーム感染すると 世界支配の力が強くなるんですね。 先生のお答え→うん。 でぼおさんの質問→第二次世界大戦でも 日本は強かったですね。 先生のお答え→そやけど日本の場合は 義を尊んだ。 イギリスと戦争した時イギリス艦隊を全滅させた時、海でおぼれかかているイギリス 兵隊を全部救った。 その時は日本の艦船は日本の旗を降ろして救助の旗を揚げた。 それでイギリスは今でも、日本は武士道の通った素晴らしい国やと言っている。 アメリカはそれやられたら自分らが悪くなって困るので、その話を封じている。 でぼおさんの質問→大体日本がやった 良いことは全部アメリカが盗んだんですよね。 自由と平等とか博愛だとか言って、自分たちがやった過去の歴史を見たら 「何を言っているんだ」ということですよね。 自分たちは、奴隷社会で、植民地も持ってヒドイことをやったか!。 それに反して日本がアジアの解放をしたのを全部自分たちがやったことにして ・・・ 先生のお答え→真珠湾攻撃を日本が やって、最初の戦争をしたというのも違うんやで。 アメリカは、真珠湾より先にインドネシアで日本軍を攻撃して日本のゼロ戦を50機 落としているんや。 最初に手を出したのはアメリカや。 その後日本が真珠湾攻撃になったわけやよ。 でぼおさんの質問→第二次世界大戦が始まった時の日本は世界最強だったんですね。 先生のお答え→世界最強で、義を重んじて 武士道が通っていた。
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源義経と武蔵坊弁慶主従の物語のひとつ「勧進帳」。奥州平泉へと逃れ行く義経と弁慶一行と、道中で捕らえようと「安宅の関」で待ち受ける関守・富樫左衛門との間で繰り広げられる物語だ。
場所は、石川県小松市の「安宅住吉神社」。境内一帯が県指定の史跡「安宅の関跡」であり、この地に立てば歴史ファンならずとも熱い思いがこみ上げてくる。 涙をさそう勧進帳の舞台「安宅住吉神社」と神社所蔵の貴重な宝物を紹介しよう。 新型コロナウイルスの発生と感染拡大に伴う緊急事態宣言が、すべての都道府県を対象に発出されています。各種報道機関の発表や自治体のホームページなどで最新情報をご確認のうえ、不要不急の外出はお控えください。(LINEトラベルjp) 源義経にまつわる悲しき逸話が残る尼御前岬能の「安宅」や歌舞伎、浄瑠璃、ドラマなど古くから人気の「勧進帳」。兄源頼朝の不興を買った、源義経と武蔵坊弁慶の一行が奥州平泉へと逃れる途中「安宅の関」での物語だ。 写真:塚本 隆司 地図を見る安宅の関へ向かう前に、石川県加賀市にある「尼御前岬」に立ち寄りたい。 写真:塚本 隆司 地図を見る尼御前岬へは、北陸自動車道の尼御前SA(下り)から歩いて行ける。日本海が見渡せる旅の途中の絶景スポットだ。勧進帳の地へ向かう旅人なら、義経を思う尼の心に思いをはせずにはいられない。 写真:塚本 隆司 地図を見る「勧進帳ものがたり館」で勧進帳の世界へ写真:塚本 隆司 地図を見る安宅の関が設けられたのは、安宅海岸の梯川(かけはしがわ)河口近く。安宅住吉神社の境内全体が石川県指定の史跡「安宅の関」となっている。 写真:塚本 隆司 地図を見る「勧進帳ものがたり館」では、勧進帳についての解説や歌舞伎、ドラマの名場面を映し出した映像などが楽しめる。特に2004年の「県立こまつ芸術劇場うらら」の?落としで市川團十郎(弁慶)、坂東三津五郎(富樫)、中村芝雀(義経)が演じた「歌舞伎十八番の内 勧進帳」のダイジェスト(12分間)は必見だ。 写真:塚本 隆司 地図を見る「安宅ビューテラス」では、食事や喫茶、土産物の販売など小松を代表する観光拠点として機能している。日本海を眺めながらゆっくりできるのがいい。 安宅の関へ、場所は安宅住吉神社の境内一帯写真:塚本 隆司 地図を見る当時の関所を思わすような門をくぐると、義経と弁慶、冨樫の像が出迎えてくれる。 写真:塚本 隆司 地図を見る知恵と勇気にあふれた弁慶と主従の絆に心打たれて見逃す関守・富樫の人情を表した「智仁勇」の文字が刻まれている。建立当初は、弁慶と富樫の2体の像があり、後に義経像が追加された。 写真:塚本 隆司 地図を見る本殿へと続く参道を歩く。木々に囲まれた開けた場所に「安宅ノ関址」と書かれた石碑が現れ、なんともいえない重い空気をまとっている。参道には、与謝野晶子や鉄幹などの歌碑が所々にあり、文人たちの感性も刺激したようだ。 本殿へ昇殿して参拝 巫女さんガイドで宝物見学写真:塚本 隆司 地図を見る安宅住吉神社では、巫女さんによる勧進帳と神社所蔵の宝物(ほうもつ)について無料ガイドを受け付けている。本殿に昇殿しての参拝をおすすめしたい。(祈祷や行事があれば対応できない場合あり) 写真:塚本 隆司 地図を見る弁慶が読み上げたといわれる勧進帳(写し)だ。実際は白紙の巻物を勧進帳に見立て滔々(とうとう)と読み上げるのだが、ここに掲げられているのは、勧進帳の出来事から2年後の文治5(1189)年に、奈良・東大寺の僧が書いたもの。弁慶が読んだといわれる内容が書かれており、その後の歌舞伎などで使われる勧進帳の元になっている。 写真:塚本 隆司 地図を見る明治3(1870)年に奉納された押し絵。桐の板の上に布を押し当て、中に綿を詰めているため、下からのぞくと立体感がよくわかる。 安宅住吉神社ならではの御利益を授かろう写真:塚本 隆司 地図を見る安宅住吉神社には、他にはない御利益がある。まずは、参拝前に境内の神亀石へ。亀は安宅住吉神社の神の使いで、神亀石の背中を「左右左」と三度なでてから本殿へと参拝すると「延命長寿」と「末広がりの幸福」にあやかれる。 写真:塚本 隆司 地図を見るお守りもこの地らしい。絶体絶命のピンチを突破した義経弁慶一行にあやかった「難関突破御守」だ。身につければ、どんな困難に陥っても力を与えてくれるだろう。 写真:塚本 隆司 地図を見る勧進帳の物語が今も色濃く残る安宅の関。安宅住吉神社に伝わる宝物の鑑賞と歴史の舞台に立った感動は格別だ。石川県小松市、安宅の関跡にある安宅住吉神社。訪れたら忘れられなくなる特別な場所だ。 安宅の関跡・安宅住吉神社の基本情報住所:石川県小松市安宅町タ17番地 この記事の関連MEMO 掲載内容は執筆時点のものです。
2019/04/13 訪問
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源平合戦の終わりごろに活躍した、源義経を捕らえるための関所。 歌舞伎の勧進帳は、この場所で起こった話を元にしている。 けっこう有名な話らしい。 JRの小松駅前には弁慶の像が、小松空港に行く橋にもそれらしい像があった。 それを見て、実はうずうずしていた。 そんな遺跡があると知って素通りできるはずがない。 歴史を調べるのは好きで、神社仏閣に行き、御朱印をいただくのが楽しみのひとつである。 歴史的なことが起きた場所に行く。 これは、けっこう楽しい。 小さな画面や本の中ではなく、見えているもの全てがその場所になり、その出来事の主人公とも言えるべき人物が見て、触れた物がそこにあるかもしれないのだ。 浪漫ロマンである。 それに、現地に行くと、面白いことがたくさんある。 紙に文字として書かれていた言葉が、自分の中にすんなりと入ってくるようにもなる。 本で読むのも楽しいが、その物語の舞台が現実にあるのなら、行ってみたいと思ってしまう。 一度行くと、クセになる。 もしも想像力に自信があるのなら、現地に行って、時間も旅行することをお勧めしたい。 石川県と私私が安宅の関が現実に存在していると知ったのは学生の時だった。 当時は石川の大学に通っていて、たまたま近くを車で通りかかった。 道路標識を見て、銅像を見て、それを知った。 それまでは、どこか架空の物語のような気がしていた。 自分が普段生活している場所に、いきなり現れた物語の世界。 当然、興味を持った。 しかし、石川県に住んでしばらくは安宅の関に行っていなかった。 学業のこともあり、微妙にタイミングがずれた。 機会があれば行けるだろうと思っていたら、意外と行けなかった。 けれど、予定もしていなかった時、その機会は訪れた。 学食で昼食を取っていると、たまたま会った友人が、「帰省するから小松空港まで乗せてくれないか」と言ってきた。 予定していた人に用事が入ってしまい、空港までの足がなくなってしまったらしい。 午前中は講義を取っていたが、午後は何もない日で、たまたま時間があった。 二つ返事で引き受け、友人を小松空港まで送った。 友人を見送ると帰りはひとりになる。 大学に戻ろうとしていると、やけに『安宅の関』という文字が目に入ってくる。 テストもなく、教授に提出するレポートもなく、こつこつと卒論を書けばいいだけの状況。 「これは、呼ばれている」そんな状況を、見過ごしてはいけない。 大学に向かっていたが、広い道路をUターンしていた。 安宅住吉神社看板に従って運転していくと安宅の関に着いた。 あっという間だった。 小松空港は帰省のために度々使っていたのに、どうして今まで来ていなかったのだろうというくらい近かった。 はじめは何もないところに石碑がぽつんとある状態を想像していた。 関所跡の『跡』が私にそういう想像をさせた。 しかし、ちゃんと駐車場があった。 無料で停められたし、運転技術のない私でもなんとかなる広さがあった。 そこに車を停め、外に出る。 小雨がぱらついていたので、車に常備してあるビニール傘を持った。 関所跡には神社があった。 だから、駐車場もしっかりしていたようだ。 思っていたよりも綺麗だった。 もっと苔むした石像があったりするような、人外なおどろお どろした雰囲気を想像していたが、神社があったためか空気が清浄な感じがした。 掃除も行き届いていた。 安宅の関と書いてある看板の下に、神社の奥にに向かって矢印があり関所跡と書いてあった。 神社までの道は木が生い茂っていて、雨で空気に元気があって、いい感じがした。 でも、坂道はきつかった。 重力が私を引き戻そうとしていた。 私が登ることためらっているのか、何か別の力が引き戻そうとしているのか。 どうでもいいことかもしれないが、道を上るのは苦手である。 坂を上りきり、鳥居をくぐった先に神社があった。 手を洗ってお社やしろの方に行くと、巫女さんと神主さんが居た。 お社の中には、数人の参拝客らしき人たちもいた。 団体客のように見えたので、自分はマイペースに行こうと思っていたら、ニコニコした神主さんが「どこから来んだい? 」と聞いてきた。 一瞬、なんと答えるべきか迷った。 車で30分の場所に住んでいたけれど、観光客だと思ってもらいたかった。 神主さんからいろいろなお話を聞きたかったからだ。 遠くから来た観光客なら、至れり尽せりに説明してくれるかもしれないけど、それだと申し訳ない気もする。 かといって、正直に今住んでいる場所を言えば、近場なんだからと説明してくれないかもしれない。 当時は初心うぶな学生だった。 とりあえず「大学に通っていて、近くに住んでいます」と答えた。 地元民ではないことを表現したかった。 今思うと、よく分からない日本語だった。 けれど神主さんは、「関所の話を聞いていくか? 」と笑顔で言ってくれたので、いちもにもなく「はい!」と答えた。 勧進帳神主さんが説明してくれるのかと思っていると、神主さんはお守り売り場にいた巫女さんに目で合図した。 すると、その巫女さんが出てきて勧進帳の話をしてくれた。 それまでは勧進帳といえば、義経が弁慶に殴る蹴るの暴行を受けたという程度にしか知らなかった。 巫女さんのお話では、安宅の関というのは箱根の関のようにいつもある関所ではなく、 源頼朝が弟の義経を捕らえるために臨時に設けたものだったらしい。 以下に巫女さんからの話をまとめた。 −−−−−本来ならないところに関所があったわけですから、義経主従は困ってしまいました。 そして、近くで遊んでいた子供たちに、どこか関所を通らずに行ける道はないかと訊ねます。 扇を渡して情報を得ようとするのですが、たまたま....(ここをとても強調していた)扇が一本足りません。 だから、子供たちは抜け道を教えてくれませんでした。 他に道はなく、関所を通るしかなくなりました。 そこで、義経一行は勧進していることにして、山伏の格好をして通ることにしました。 勧進というのは、お坊さんが寄付を募って地方を渡り歩くことです。 そうすれば、関所を通ることができると考えました。 けれど、関守の富樫とがし左衛門さえもん泰家やすいえは彼らを怪しみ、勧進をしているのなら証拠を見せろと言います。 そこで武蔵坊むさしぼう弁慶べんけいは何も書いていない巻物を勧進帳だと言い、それを広げると、さも書いてあるかのように読みあげます(その内容は石碑に書いてあることを教えてくれた)。 その甲斐あり「通れ」と言われます。 けれど、最後にいた荷物持ちの振りをした義経が目をつけられてしまいます。 「義経ではないか? 」と言われてしまうのですが、機転を利かせた弁慶が、「またお前か。 お前のせいで何度足止めを食らっていると思ってるんだ!」と言って、殴る蹴るの暴行を加えます。 その姿に心を打たれた富樫左衛門は、彼らを義経主従と知って...関所を通します。 これが歌舞伎の勧進帳で、ここはその舞台となった安宅の関です。 −−−−−−−富樫さんが義経主従だと『知って』通したところがポイントらしい。 安全だと思っていた場所に、いきなり関所があって義経主従はびっくりしただろう。 悪いことなにもしてなくても、おまわりさんがいたら驚く。 いきなり道路で検問をやっていたという状況で、しかも自分が探されてい犯人だったとしたら......。 それを想像して、一緒に緊張してしまった。 お話が一段落すると、なんとなく巫女さんと目が合って、にっこりと微笑みあってしまった。 巫女さんから話を聞いている間に、先に建物の中を見学していた方たちの話が終わり、入れ替 わるように私も建物に入り、中にある宝物の説明を受けた。 羽子板と同じように、板に布で勧進帳のシーンが描いてある絵。 版画も江戸時代後期の珍しい物らしい。 三枚で一枚の絵になっているが、手作業なのでどうしてもずれてしまうそうだ。 また、今もあるかわからないが、由緒のあるお家から奉納されたらしい武器も面白かった。 とげとげがいっぱいついた、大きくて持ち上げるのが大変そうな武器や、さすまたの実物も置いてあった。 錆びている感じで少し怖かった。 だいたい説明が終わり、また意味もなく、巫女さんと微笑みあってしまった。 笑顔が素敵な巫女さんに案内してもらえて、嬉しかった。 安宅住吉神社は、勧進帳にちなんで難関突破のお守りが有名らしい。 買っておけばよかったと後になって後悔した。 すぐに来れると思って買わなかった。 また行くことがあれば、今度は買いたい。 関所跡で思ったことお礼を言い、それからひとりで神社をお参りして、周りをうろうろしていると、神主さんが「裏に行くと、関所跡がありますよ」と教えてくれた。 肝心なところに行っていなかったことに気づいた。 雨が降っていたので歩きやすい道を教えてもらい、その道を行くと小さなお社があった。 お参りして関所跡に向かう。 与謝野晶子の歌碑があり、松という字が目に入る。 松? と思いながら左に行くと、松に囲まれた『関所跡』と書いてある石碑があった。 この松のことだろうか? そもそも私に歌心はない。 でも、ようやく関所跡に着いた。 一回りに1分もかからないくらい小さな場所。 元々の想像通りだったが、もっと道をふさぐような物でなければならないのではないか? そうでなければ、義経は子供たちに扇をあげなくても済んだだろう。 現在の神社の近くに、必要もない関所があっても困るだけかもしれないけれど。 しかし、この感じは嫌いではない。 石碑がぽつんとあるだけ。 その周りに自然がある。 ここに関所があったのは八百年も昔のこと。 人がいなくなれば、あっという間に草木で覆われる。 人間の感覚からすると長い時間だけど、自然界から見れば一瞬かもしれない。 その先に階段があったので、下ってみると海があった。 そこに勧進帳の像が立っていた。 像の前に説明が書いてあって、はじめに弁慶と富樫さんの像がでてきて、その後にその像を作った人の息子さんが義経の像を作って、像の前に書かれている文字をまた別の方が書いたという。 父から子へと繋がり、その先も繋がっていく。 点ではなく線、そして面になり、立体になる。 石川はかなり昔から教育に力を入れているらしい。 だから知識が途切れないのだろう。 また、まっすぐな物は曲げ、曲がっている物はまっすぐにすると、金沢城で観光ガイドをしていた『まいどさん』から教えてもらった。 安宅の関と、そこにいたであろう富樫左衛門。 彼は悲劇の英雄が北に逃げるために手を貸した。 追われている人間を逃がしてしまうのは曲がったことかもしれない。 吉野山で行方をくらませた義経は、命を落とすことになる平泉に行くまで、どのルートを通ったのかわからないらしい。 安宅の関を抜け、能登半島の先まで行き、船で東北に行ったというのも有力な候補のひとつ。 しかも、この辺りには義経の伝説が多く残っている。 けれど、それが史実になってはいない。 つまり、当時の人たち、義経に会った人たちは、義経の行方を誰も正式に通報しなかったのではないか。 通っても見て見ぬふりをしてくれた。 義経主従だと知って、通してくれた富樫左衛門のように。 当時は曲がったことだったけれど、時間が経ってまっすぐになった。 英雄伝説として。 石川の人たちは、この物語を大切に後世に伝えようとしている。 安宅の関では巫女さんがとても素敵だった。 もちろん、神主さんも。 人々の温かさに触れることができて、嬉しかった。 ありがとう、物語を伝えてくれて。 私がここに来るきっかけを作ってくれて。 雨が降っての鈍色に輝く日本海を見ながら、そんな気持ちになった。
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バクロスTV#8 テレビでは話せない!ここだけの本当の話!!市民バクロスTV 第8回 今、放射能があぶない!
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バクロスTV#8 テレビでは話せない!ここだけの本当の話!!市民バクロスTV 第8回 今、放射能があぶない! 【特別対談】「放射能と原発の真実」内海 聡氏 × 小出 裕章氏 「死ぬと思ったこと数度」吉田福島第一原発所長1/3(11/11/14)
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【カタカムナ】幣立神宮の石碑と国東の石碑の古代文字が示していたものは人智を超えた超システムだった!?
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