2004年3月6日(土)
倭の国は由良川のほとり、そのナゾのいろいろ、トヨウケ(2005/5一部追記)
2004年3月6日 夜中突然目が覚める。
「トヨウケです。
私は悪い者ではありません。 今度の物語に付け加えてほしい事があります。
それはヤマタイコクが滅ぼされた後に出来た国のことが消されていることです。
そのことに気づいてください。
ヒミコがワが大切と言ったことから生まれた、ワの国 (倭の国) のことです。
ワの国は倭と書き、 “イノリをするホの女” という意味です」
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(ホは亡くなった後別れるというカタカナの意味)
「(魏志倭人伝の) 倭の国とは、 日本 (列島) の国だと中国の人は思っていますが、本当はここなのです。
その倭の国は、私が作った由良川のほとりにありました」
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(綾部と福知山にまたがった平野から 由良川下流の沈下した広大な平野に発生した国)
http://kammuri.com/
「私はトヨウケです。
【聖塚】 や 【あやめ塚】 も作りました。
これは (巨人トヨウケの) オッパイのつもりで作りました。
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綾部地域の古墳群
由良川は私一人で作ったのではありません。
もう一人の弥仙 (=君尾山の巨人) と一緒に作りました。
二人で作ったので由良川は (急角度に) 曲がっているのです。
弥仙は男性の巨人で、落としモノで 【山家の立岩】 で残しました。
私 (トヨウケの身体) は今は山になっています。
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(私市円山古墳とその裏の小山)
私が (トヨウケが本当の) 【三内丸山】 なのです。
青森のは (テレパシーで伝えて) 私の形をあらわしてくれたものです。
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(綾部で当初、青森の三内丸山の様に巨木を立てて、巨人が作ったということをあらわしていたという事。 = 三宅遺跡にあった謎の穴跡)
けれどもそれ (巨木を立てていた穴) をわからないようにするため、ヤマトの者はわざとたくさんの穴を作ったのです。
私は 【三内丸山】 になったトヨウケです。
サンナイとは、(サ) されて最後 (ン) に亡くなった者 (物部守屋) が中に入る事がわかったのでその名前にしたのです。
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(ソラ辞典カタカナ参照)
(私市とは、キサイチ = 妃・スイコに一番嫌われた物部守屋のことをあらわし、
キサイチマルヤマと発音するのをイシカミは嫌う)
由良川考古学散歩
【蛇行する剣】 は、ヤマトの者 (=人間) がイシカミを殺した (言い伝えを抹殺した) という事をあらわすために作ってもらいました。
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http://www.kisnet.ne.jp/~matikado/koukosanpo2.html#2-8
(綾部市資料館展示品の石冠 )
http://www.kisnet.ne.jp/~matikado/koukosanpo.html#1-0
そして私のしたことを隠すために、遠くで祭る* ようにしたのです。
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(* 食べ物を考え人間に与えた事を、イシカミを封印するヤマトの支配から隠し守りつづける為、綾部より離れた ‘丹後のマナイ’ で祭るようにしたのが始まりと)
私は君山の子供 (=巨人) でした。
これまで君山には子供はいないと言ってきましたが、ヤマトの子孫がまだこの国を治めているので言わない方が良いと思ったからです。
私が作った池 (福知山の3段池) から水を引きお米を作りました。
その証拠が池の周りにあります。 (=稲葉塚古墳)
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福知山の古墳群
けれどもその池に支配星はリュージンを降ろしたので、争いを好むリュージンは人間に災いをもたらし、悲劇が絶えませんでした。
又、シガサトの山奥の池にもリュージンが降りて災いをもたらし、悲劇を招いていました」
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(いずれも今は支配星の部下であったリュージンのエネルギー体はいませんが、
争いを好むリュージンを神と崇めていると、そこにエネルギー体が発生していたずらをするようです)
※2005/5追記 まとめ
【トヨウケ】= 君山の巨人。
私市丸山古墳とその裏の小山。 聖塚と菖蒲塚はトヨウケの両乳房で現存。
由良川を作り、人間のために食べ物を考え与えてくれた (本来の) トヨウケ。
(注1: 伊勢外宮と丹後の真名井に食物・豊穣の神として祭られているのは、
いにしえにトヨウケが人間のために食べ物を作り出したことへの感謝を、イシカミを封印するヤマトの支配から隠し守るために、遠くの真名井で食物豊穣の神として祭るようにしたのが始まりです。
後から降りたモノが本来のトヨウケの名前を踏襲した?事と知らされる)
(注2: 青森の 【三内マルヤマ遺跡】* は、【私市マルヤマ古墳】 のトヨウケが原初のモデルで、綾部の原初のモノ(=三宅遺跡による)* を青森の巨人にテレパシーで教えて、同じモノを作ってもらった遺跡と)
* 参照 【綾部市舘町の三宅遺跡にあった謎の穴】
トヨウケ (=私市丸山になった) が、当初綾部で巨木を立てて巨人が作ったという事を表わしていたのを、ヤマトにより封印されると先の事がわかっていたので、同じモノを、青森にテレパシーで伝えて作られたモノが三内丸山遺跡と知らされる。
綾部に原初のモデルがあった事。
http://www.kisnet.ne.jp/~matikado/koukosanpo.html#1-0
* 参照 【三内丸山遺跡】
ここの掘立柱と言われて巨木が6本立っているのは、巨人が自分の大きさを形で示し、人間に語り伝えてもらうために巨木を立てたそうで、上の方は切らずにそのまま立てていたそうです。
6本という数は、 巨人は肉体 (=5本) を持ちながらイシキ (霊) を理解しているという意味だそうです。
掘立柱の前に長い家がありましたが、あれは横に7本、二列に巨木の柱を立てたのは、 “連なった巨人” がいたということをあらわしたそうですが、後から人間の為に家にした? そうです。
http://sora.ishikami.jp/diary/index.php?id=20030826222567
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