2004年8月17日(火)
物部の娘、オオイ・アマノヒト、大文字焼き。
2004年8月17日
「物部の娘です。
ようやく降りることができました。
(物部が滅ぼされた後) 物部一族の男達は石を信じる人たちによって匿われ、
散り散りになりました。
女はいつしか (蘇我の) 言われるままになりました。
それで (物部の) 血は残されたのです。
それでも石を信じることは禁じられました」
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寝る。
(それ迄平和な国として治めていた物部を慕う人が多い反面、朝鮮から来て仏教を強制する蘇我を嫌い、その後のヤマトの権力者は思うようにならなかったので、
物部の力を利用した)
「それは悲しいことでした。
仏の教えを信じないと倭の都も、“オオーイ アマノヒト”(オオシ・アマノヒト) と呼ぶようになると言われたのです。
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http://kammuri.com/
オオシ・アマノヒト(=凡海郷) とは、倭の国の海辺の平野の村の人たちのことです。
倭の国の海辺の人たちは、山の上のヒルイ・マナ (ヒルイ=リュージンの子供に祈る人) に支配された人たちに責められ、悲惨な毎日を送っていました。
逆らう者は土の入れ物 (埴輪) の中に入れられたのです。
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(丹後の資料館には、人が入れるくらいの埴輪がある)
(海辺の人たちの悲惨な状態を見て) イシカミが怒って沈めたのです。
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(ムーと同じで、人間の苦しみを止めさせた)
父 (物部守屋) の最後は以前お知らせした通りで、いつもお参りをしていた山、
丸山 (=私市丸山古墳) に埋葬することで最後とされ、いつしか忘れ去られていったのです。
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(埋葬はさせるが拝ませないという意味?)
そして倭の国の宝物は全て、ヤマトに運ばれ、誰も “石” のことを言わなくなり忘れさられていったのです」
「倭の国は海辺の者と、イカルガの者と仲良く暮らしていました。
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(今も残っている綾部のミナツキサンの祭りは、由良川を遡ってイカルガまで来ていたので、 “海の皆さんが着きましたよ” という交易の名残だそうです)
けれどもリュージンは、イ = 猪の者 (福知山の3段池のそばの権力者?) も支配し、ヒルマナイの者と一緒になったので、平和な倭の国も争いの好きな国となり、ヤマトと結びつきました。
(星原や君山などあちこちに山城の跡があるのは) イシカミである山の神を祭らせないように監視するためです。
それは (物部の人たちが集まって勢力を盛り返さないように) 見張りをするためでもあったのです」
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【ビジョン】
“背広を着た男性がデパートの中の通路の交差点で、大の字になって寝るアニメ?”
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(昨日の穀物模様 = 南極を中心に大陸が配置されるように、イシカミ達が降りてきたようです。 通路の交差点は丁度、穀物模様の真中のようでした。
そして寝転んだのが 南極のいて座の王だそうで、人間嫌い?)
昨日は京都の大文字焼きでした。
「イシカミは山の神なので、山を焼くによってイシカミを滅ぼしたと思わせるために、仏教の指導者が始めたのです」
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奈良の春日山の山焼きも同じです。
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