ひふみ神示,日月神示

良い宇宙人と悪い宇宙人



NO1563

綾部についてのまとめ 


千成記 (このページは、わたしが2012年5月頃に「ソラ情報」に最初に触れた頃の内容です。)

ペコさん情報読んでいたら、最近わたしが興味を持ち始めた 八咫烏情報が 載っていました。

このページを読んでみて超ビックリ!

日本の歴史がひっくり返るような驚くべき内容が載っています。

思わず「ここに載っていることは本当のことなのかぁ?」と叫びたくなりました。

ここに出てくる星原などの情報は、幸いわたしが京都に住んでおり、確かめられるので、少し足を伸ばして訪問してみました。

だだ綾部市 星原町 星宮神社は、見つけ出すのが大変でした。

そのあたりに行って土地の人々に訊いても知っている人は少なく、あっちへ行ったりこっちへ行ったりと散々うろうろして探すのに手間取りましたが、やっと見つけました。

星宮神社は、石段を上がった小さな神社で土地の人に氏神様としてまつられていました。

このページの情報に興味を持たれて訪問される方もおられるかもですが、発見するのは相当苦労されるでしょう。

以下のブログに星宮神社(上から三枚目の写真)と石段を上がったその神社の境内から下の方を見た田畑の風景写真(上から四枚目の写真)があります。

http://yokoiterum.exblog.jp/13106390/

ソラ情報は信頼できるのかどうかが問題になってきます。

わたしが日頃から尊敬していろいろ教えていらだいている方からメールを戴きました。


最近、ソラとか言う変なサイトに嵌って居られる様に感じますが如何ですか?

何年か前に話題になったことがあり、一度覗きに行きました。

そこでイエスと言う名前についての説明がありました。

「イエスは子供の頃から何でもイエス、イエスと言っていたのでイエスと呼ばれる様になった」

大爆笑しました。

キリストの時代、あの辺りでは英語は存在しません。

ヘブライ語かギリシャ語でしょう。

この説明文を見た瞬間に、アホサイト、大法螺サイトだと確信しました。

その後、一度も覗きには行っていません。

アホサイトには関わらない方がイイですよ。

老婆心ながら・・・m(__)m もう削除されたかもしれませんね。

まだ残っていたら最高ですね。

このメール↑の言われることはもっともなご指摘でしょう。

ソラ情報は、チャネリングした情報をそのまま載せているのか、 内容が子供が話しているような感じにとれます。

読んでいると「本当に大丈夫か?」と思いたくなる部分が多々あります。

なにせ、昔の石の建造物は、人間ではなくイシカミが造ったというのですから、 人間の思考範囲を超えています。

ただ、わたしは、過去にはムーとかアトランティス文明があって 現在よりも高度な文明を誇っていたという情報を信じています。

そんなに高度な文明があったのに、なんで現在は石の建造物しか残っていないのかが不思議でたまりません。

金属は1万年もすると錆びて消えてしまうから、石しか残らないのだろうと自分では思ってきたのですが では、当時高度な金属があるなら、なんで加工のしにくい石の建造物なんかを造ったのか? ということが頭から離れませんでした。

現在でもビルを造るなら、鉄筋とセメントを使います。

まさか石でビルを造りません。

石は加工するのが面倒です。

過去の時代でも石で建造物を造る理由があるとは思えません。

それなのに、世界中に石の建造物があり、巨石文化が栄えドルメン、メンヒル、列石、環状列石、石像 などがあります。

なんで石なんでしょうか?

ところがソラ情報を読んでいくと、それらの疑問に答えてくれるような気がするのです。

石の建造物は、人間が造ったのではなくイシカミが造った!

子供っぽい説明ですが、わたしのように頭が悪いと、妙に納得できるのです。

「アホサイトには関わらない方がイイですよ。」とメールしてくださった方は、科学的思考力と実行力を 兼ね備えた、飛び抜けた方です。

こんな方からメールをいただいているのに、「ソラ情報には何かがあるのでは?」と思えてしまいます。

う〜んです。

石の建造物に関することもそうですが、チャネリング情報に関しても、ソラ情報には 異色の情報があります。

こうなるとしばらくはソラ情報を見つめることになるかもです。

なにせ、いかなる情報でも、それがある程度は、「これは真実かも」 と思いこまないと、追求する気持ちが起きません。

そこで、しばらくは、ソラ情報にもはまってみてもいいのでは?という気持ちになっています。

となると、上に紹介させていただいたメールの主様は、オヨヨ と呆れてしまわれるかもです。(^_^;)

5 物部氏 考にも参考情報があります。


http://sora.ishikami.jp/diary/index.php?id=20040617172756

2004年6月17日(木)
綾部についてのまとめ。【5,12,26日、出口ナオについての記述は削除しました】


先日のオオモトの情報や同じ事がダブって出て来ますが悪しからず。

↓ 以下は綾部関係をまとめてくださいましたのでお知らせします。
昨日とダブル部分があったり、同じ事が繰り替えされたりしますが、悪しからず・

《星原》 《小呂》 《吉美・多田》 《高倉》 《八田》 《上林》  《十倉》 《篠田・向田・内久井》 《西方》 《志賀郷》 《物部》 《舘(三宅)》 《私市丸山古墳》

【ソラ辞典】   ホシノミナ
宇宙の大元の分身と言われる。稲妻。大昔恐竜ばかりの争いの地球になったため、宇宙の大元の命令で地球に降りてきた。その時稲妻で一気に地球を掃除し、恐竜を滅ぼしたと伝えられる。 掃除をした後京都府綾部市星原 で眠っていたが、 1998年秋に目を覚まし、著者とコンタクトをとっている。この場所にホシノミナジンジャがある。

【ソラ辞典】   星原
宇宙の大元の分身のホシノミナが降りた所と伝えられた。
この地域にある入母屋つくりは、ホシノミナが降りてきたその形をあらわしているそうで、屋根を逆さまにして空気抜きは 「口」。綾部市星原という小さな村で、ヒミコの娘とノアの息子が出会った所であり、その子の山彦が住んでいた所。
谷間の村なのになぜ星原なのかと言うと、星述べ → 星野辺 → 星野原 → 星原 になった。
ヤマトにとっては一番隠したい所であり、古くは柿本人麻呂等も訪れ、ノアの息子とヒミコの娘や山彦の悲劇が、百人一首に読まれている。

【ソラ辞典】   星述べ
星 (射手座=イシカミ) から、いろいろと農業や人間生活に必要な知恵をチャネリングで受けて皆に伝えていた。 星述べ=特に子供や女性。
その言葉を知るために多くの人が集まって 「倭の国」 が出来たが (指導者は物部氏)、 その後プレアデナイの支配星が強くなり、死後にジゴクがある、仏教を信じなければと脅かされ、イシカミの話は封印されていった。

【ソラ辞典】   ノアの息子・ムウラ    
世界中の巨大なイシカミが大泣きして 「ノアの洪水」 が起こり、その時一組のユダヤ人のノアの親子が日本に漂着し、イシカミの言葉に導かれて星原にたどり着く。其処でジンムから逃れて来たヒミコの娘に出会い、山彦 と、海彦と女児 (2人は養子) に恵まれるが、最期は大江山でジンムにより惨殺された。
【追記】
ムウラはウシトラのコンジンとして降りたように伝えられたが、後で外宇宙の策略で偽物だった。

【ソラ辞典】   ヒミコの娘・イト
大国主とヒミコとの子供でタケルノミコトの姉。 ジンムが (四国の) ヤマタイコクを襲ってきた時、秘かにイシカミの声に導かれ星原に逃れる。
そこでノアの息子と出会い一緒になり、山彦と、海彦と女の子 (2人は養子) に恵まれマナイで幸せに暮らしていたが、ジンムにさらわれニニギノミコトを生まされる。 後にマナイに戻ったが子供達は殺されたり行方不明になっていたため自殺をしようとするが、再びヤマトへ連れ戻されそうになり、スセリ姫が身代わりになってくれたために隠岐の島に逃れ、其処で父親の大国主に出会い最後まで一緒に暮らす。
母と子のこの話がテレパシーで伝えられ 「山椒太夫」 となった。

【ソラ辞典】    山彦
ノアの息子とヒミコの娘の子供。星述べの 「白い木の者」 の始まりで海彦の(義)兄。 君山の傍の星原に住んでいたが、父・ノアの息子と同様に外人 (ユダヤ人) の風貌であったために捕らえられ殺されてしまう。

【ソラ辞典】    君山(=城山)
キミ山。 城山 (シロヤマ・ジョウヤマ) とも言う。京都府綾部市吉美にある三角の小さな山。射手座の女王の末子で、唯一ホシノミナのそばに降りて山彦を見守ったが、殺されたためシガサトの 7(8)不思議の奇跡を起した。君山が指示していた物部氏が負けたことにより、イシカミの話は封印され忘れ去られた。
 
【ソラ辞典】    私市円山古墳
京都府綾部市私市にあり、物部守屋 (=モノを述べる・星述べの子供を守る) と、星述べ (=白い木の者) の子供の墓と知らされた。
高速道路を作る時に発見された京都府一の巨大な円山古墳。
(隠されていた) 大人と子供の遺体が発見され、古墳の回りには、多数の横穴のあいた土器が置いてある。この横穴のあいた土器は、将来この古墳に横穴 (高速道路) が通る事 (先の事) をイシカミはわかっていたのでテレパシーで知らせていた。丁寧にその小山が丸石で葺かれているのは、イシカミをあらわす 「石」 を大切にしていた事がわかる。
キサイチとは、仏教を推し進めるスイコ (キサキ・后→天皇) が、イシカミを信じる物部氏を一番嫌ったことから来ている。

【ソラ辞典】    物部守屋
「モノを述べる」から来た名前。モノとはイシカミやヤマタイコクの物語を言い伝えていた イカルガ (何鹿) の星述べの子供の後見人であったので守屋という名前。 物部村から出た人で、仏教を強制する蘇我氏や聖徳太子と戦った。綾部の私市円山古墳に大小の遺体があったが、これが物部氏と星述べの子供の2人。

【電子本1集】 P.53    星からのメッセージ 
1999年9月18日夜中
「ホシノミナジンジャ がなぜあそこにあるかというと、大昔ある男の人が何かとても光った物が落ちてきたので草木をかき分けそこに行きました。そこに着くと大いなる星の学びを教えられました。星祭りは、本当は星原の祭りなのです」

1999年9月20日2時 書いてもらえますか、と。
「ヒロ?シロ? となかなか言葉が出てこない。ヒヒイロカネのことです。
あれは射手座からの星の隕石なのです。
ホシノミナを証明するものですホシノミナにお返しください。ホシノミナの神より」

【メールマガジン】 2001/02/11    星物語           (オオモト重複)
(前文略)

【メールマガジン】 2001/02/12    星物語 (シガサトの7(8)不思議)
2001年1月29日
牡丹雪が降ってきれいな雪景色にしてくれ、98年の悲惨な体験を覆い隠してくれました。
(メモを取っていないので覚えている事のみ)
* 卵はどうして楕円か?= 星から来るときは丸形だったが引力で楕円になった。
*  綾部の星原の近くにシガサトに、7(8)不思議が伝えられている事が解った。

1) 白 藤 = ヒミコの娘が連れて行かれる時ノアの息子を偲んで白藤を持って行く。....................................................................................(大江町有路の“才の藤”)と(藤波神社)
マナイの元伊勢籠神社でも“藤祭り” と、巫女の舞 “刀振り” が神事で伝えられている。.................................................................................................................................................(籠神社)
2) ミョウガ = 2月4日に出る。剥いても中身が無い栄養も無い人間の生き方の戒め。.....................................................................................................................................(阿須々伎神社)
3) タケノコ = 2月3日に出る。竹は人間のためにいろいろ利用できるように人の生き方を奨励。......................................................................................................................(篠田神社)
4) 揺らぎ松 = 風がないのに揺らぐ。..........................................................................( 向田 )
5) しずく松 = 雨が降っていないのに滴が落ちる。..............................................( 向田 )
6) ご 用 柿 = 山彦が罪もないのに、ご用!と言われ殺され、恐怖で秋に柿が熟さなかった。遅れて正月に食べる事が出来るようになった。................................( --- )
7) 白 萩 = 冬に咲く。今は色藤が咲いている。..............................................(若宮神社)
8) 夜 嵐 = 怪力の人 (=山彦) のイシキが人に乗り移って、殺した人に報復したと知らされました。 ............................................................................................................................... 

*)  シガサトは、星原から追っ手を逃れて山彦 (=ノアの息子とヒミコの娘の子供) が殺された村で、それで君山のイシカミが不思議なことを知らせた。
言い伝えは残っていますが、最近は “ミョウガさん” と “タケノコさん” の神事と、“白藤” が残っているだけだそうです。 シガサトの近くに物部と言うところがあり、夜中に 「ここから物部氏が出た」 と言っていた。

*)  山彦の伝説を徹底して消す為か、山彦が星原からシガサトに逃げたかっての道路に (今はない) 今は不動明王があり、7(8)不思議の近くには有名な観音がその周りに祭ってある。

*)  君村=旧吉美村に 「ヤソ、ヤソ、ヤソ」 とかけ声をかけながら、首にかけた12本の竹 (ササラ) を肩に上げていく 「ヒヤソ踊り」 というのが言い伝えられ、村祭りの時に吉美村の男の子が集まって踊る。 
ヒミコのヒと、ヤソ (外人) =ノアの息子がいた事を知らせていたが、後年はヤマトの都合の良い説明になっている。  (高倉神社) 


【メールマガジン】 2001/02/26    星物語
【ウラジロ、シガサトの7(8)不思議】
私が子供の頃お正月前に子供達は山 (山彦が逃げた山) の近くに、ウラジロ (=裏が白い植物の葉) を取りに行った。その時男の子は山の神さんにお参りしていた。
(最近わかったのが、その付近に星原城という山城の遺跡があり、星述べの者をヤマトの者が見張っていたと知らされる)
ウラジロをお鏡餅の上に飾るのは、裏が白い=真実が隠されていると言うことを言い伝えている。 シガサトは山彦が逃げた時匿ってくれたので、イシカミが7(8)不思議の奇跡でお知らせをしたそうです。

【メールマガジン】 2001/03/14    星物語
2001年3月14日 真夜中
「キミヤマ、キミヤマ、」 と言って目が覚める。
「私はキミ山です。
本当の名前は君山ですが、土地の人は城山 (ジョウヤマ・シロヤマ) と呼んでいました。
(城山には城跡の遺跡あり。当時そこで見張りをしていた)
私がホシノミナのそばの星原に降りたので  (私が知らせたので)、ホシノミナのいる所が解ったのです。
私は未熟児のようにとても小さいもの (イシカミ) でしたが、お知らせすることは出来ました。私はあなた (著者) が呼びかけてくれたことがとても嬉しかったです。私の足下や私の分身の巨人=トヨウケ (私市円山古墳) にも高速道路が通りました。それでお知らせしたのです」
(先日帰った時写真を撮ったりした。鉄塔が痛々しかったのでお詫びをした。)

「(シガサトの7(8)不思議は) 私 (君山) が考えたのです。
シガサトの7(8)不思議を 、よく皆は伝え続けてくれました。
今は意味の無いミョウガの世の中です。けれどもタケノコの様に世の為になるものでなければなりません。
君山を頭と考え、 (別の山を) 君尾山と名付けました。何故ならヤマトの者に君山を見つけられないようにするためでした。
城山 (ジョウヤマ) の山頂にあるわずかな石が私の落とし物なのです。

忘れられない人、それが山彦です。いつも山彦とはお話ししていました。
そしていつもミナツキサン (綾部の夏祭り) には海彦と楽しく過ごしました。
なぜ山彦と呼ばれるかというと、山彦が山に入るといつもキノコが生えたから。
それが椎茸でした。 椎茸は (日に当てると) 骨が強くなりますが、そのようにしたのは私君山です。松茸は後から真似をして作られました。
山の谷に作っても おいしいお米がとれるようにしました。
空の畑 (星原の畑) も荒れるにまかせ悲しく思っています。
以前は柿や栗がたくさんなりました」
(子供の頃は小山全体が柿や栗畑だった)

*) 君山は山彦を見守っていて山彦が殺された後、シガサトの7(8)不思議を起したり、小豆 (山彦の殺された血の色) や 黒豆 (ハラ黒いヤマトに真実を隠されたこと) を出した。

【私市円山古墳】
綾部に私市円山古墳があります。
京都府一大きな円墳で、円筒埴輪がぐるりと周りを取り巻いているその円筒埴輪の途中に穴が開いているので何故かと思って寝ました。
夢うつつに聞きました。
「ジョウヤマのイシカミ (君山の巨人=トヨウケ) が、山が見えるように円山を作ってくれた。そこに (物部氏が) 葬ってもらいイシカミのことを伝えられていたが、次第に忘れられて行った。その下に道路が通ることをイシカミに (テレパシーで) 教えられこの様な埴輪を作った」
(この古墳の真下を今は高速道路が走っています)


【メールマガジン】 2002/03/04    ソラ物語
「アラビアから来た人、青森に着いた」 と言う言葉が出てきましたが、その意味は
「アラビアから青森に着いた人とはイエスの事です。
その人は (日本では) イスキリと呼ばれていました。
物部氏はイエスの生まれ変わりで、射手座のイシカミが応援しましたがプレアデナイに支配された聖徳太子に敗れました」

「(イエスは) 良い人です。 (日本で) イスキリと呼ばれた人でした。
イシカミに守られてアラビアから日本に来ました。
それが (イスキリが) 私の前世です。 物部の守屋です。
すさんだ世の中になっていました。あらゆる所で人が殺されました。
石を拝むなと脅されました。そして石の代わりに仏像を拝まされました」

「何故、私市円山古墳と呼ばれるか?
女の天皇 (スイコ) に一番嫌われた者でした。
(キサキイチ嫌われたと、これまでの情報とあっています)
スイコと家来の間に出来た子供が聖徳太子で、ウマヤドノミコと呼ばれていた。
生意気で陰険な人でした。シリウスにも、支配星プレアデナイにも可愛がられたので、あの法隆寺を建てるような指導が出来たのです。
聖徳太子は、国の経済を省みず次々と工事をするために、多くのお金が要りました。それらを民衆から絞り上げていたので、皆から嫌われていました」


【お知らせ】2001年10月31日  イシカミの地球着地。追記【綾部と元伊勢の山々】    
2001年10月31日 3時40分
眠れないので星原の事を思っていると突然地響きとともに 「ドスーン」 と大きな物が落ちたような音がきこえました。 (北東方面)
聞くと、
「あの音は重要な意味を持っています。
君山が地球に降りてきた時にあのような音がしたのです。
すなわち物質としてのイシカミが、宇宙から降りてきた時の音をあらわしました。
そしてその衝撃でイシカミの球体はつぶれたのです。キミ山もこのような痛みを感じました」
(急にお臍のところがキューと痛くなるも1分くらいで治る)

「君山は未熟児のように小さかったので (人間の) 巨人は連れて来ませんでした。
それで小さな君山は、分身を作る (お腹から取出す) のが最初の仕事でした。
そしてその分身 (日室岳)* が2人の巨人を作り、すぐに働いてもらったのです。
その巨人達がトヨウケ* (私市円山古墳) とイナリヤマ* (本宮山=鶴山) で、 ミセン* (弥仙山=君尾山の分身の巨人) と力を合わせて由良川を作りました。
また (福知山の) 三段池を作り、田へ水路を引きおいしいお米が獲れるように
人間のために働きました。その証拠が池の周りにあります」  (=稲葉塚古墳)

※2005年4月14日追記 【綾部と元伊勢の山々】

*)  君山 = イシカミの女王 (ご在所岳) の末子。 未熟児だったという綾部市吉美にある小山。唯一ホシノミナのそばに降りた。
山彦を見守っていたので、シガサトの7(8)不思議を出してヤマトに抗議した。

*)  日室岳 = 君山の分身。  (岩戸山 = 城山ともいう) 
加佐郡大江町の元伊勢内宮の神体山。地元では天照大神の御陵 (お墓) と伝え、古来より “山が光る” と伝わっている。
見事な三角山ピラミットは、まさにイシカミの分身 (巨人) 自身のからだで、河原には奇岩が多い。
(情報ではノアの息子がヤマトにより、大江山の麓の毛原 {=毛が飛散る意} で惨殺されたと知らされる) 

*)  トヨウケ = (イナリヤマと共に) 君山の巨人。
由良川を作り、私市円山古墳、聖塚と菖蒲塚 (トヨウケの両乳房) となって現存。人間のために食べ物を考え与えてくれた (本来の) トヨウケ。

(注1: 伊勢外宮と丹後マナイ神社に食物・豊穣の神として祭られているのは、
いにしえにトヨウケが人間のために食べ物を作り出したことへの感謝を、イシカミを封印するヤマトの支配から隠し守るために、遠くの真名井で食物豊穣の神として祭るようにしたのが始まりです。
のちに、後から降りたモノが本来のトヨウケの名前を踏襲した?事と知らされる)
(注2: 青森の 【三内マルヤマ遺跡】 は、【私市マルヤマ】 のトヨウケが原初のモデル (=三宅遺跡にあった謎の穴跡) で、テレパシーで教えて作って貰った遺跡と知らされました)

*)  イナリヤマ = (トヨウケと共に) 君山の巨人。
君山の巨人。オオモト本部の聖地 (鶴山 = 本宮山) として現存する。
(オオモト開祖の出口ナオさんが、ウシトラのコンジンより言われたことに、
“宇宙の大元の分身が降りた星原 = 君山の麓にオオモトの物を建てて欲しい”と。
その君山が解らなかったと。また当時の度重なる国の弾圧から推測しても、
イナリ山=本宮山が、君山の身代わりとなる?)

*)  君尾山 = 君山のお供で降りたイシカミ。
ヤマトに対して君山の身代わりとなった。自分の分身から巨人 (弥仙山) を作った。

*)  弥仙山 = 君尾山の分身の巨人。
落し物で “山家の立岩” を作り、君山の巨人のトヨウケと共に由良川の曲がりを作ったと言う。
 
*)  四つ尾山 = 君山のお供で降りたイシカミ。(六つの尾根ある ムツオヤマと呼ばれたいと)

*)  綾部の山々 = 名のある山、名の無い山々も全て射手座より降りたイシカミと、その分身と巨人です。


【お知らせ】 2002年3月17日   君山(=城山)、小呂。   
3月16日お風呂で小指が動かなくなる。(昨日の情報を公開していないからと)
「山彦は山と太陽の日の子供という意味でした。
山彦です。ヒミコの娘の子供でした。
なぜ私が星原に住んでいたかというと、キミ山=シロヤマとお話できたからです。
そして君山にいつも登っていました。
そして大きくなるとヒミコの娘の男性 (ノアの息子) に似た風貌になりました。
周囲の人は気を付けるように言って来ました。
それは父親と同じ運命になるかも知れないと言われました。
そして本当に容貌が似ているというだけで殺されました。
(孤児になったので) 私の子はイヌ (ヤギ) のお乳で育ちました。
(読者の) 夢で星原に茶色のヤギ がいたと言うのはそれをあらわしたのです。
(2001年3月、読者が行ったこともないのに君山や星原にとてもよく似た情景の夢を見たが、その時茶色のヤギがいたと知らされた)

何もかも奪われ悲惨な暮らしでした。
そして随分と時が経ってからですが、一寸法師の話として知らされたとおりです。 一寸法師は山彦の子孫の物語なのです。
(* 一寸法師が仁徳になったと伝えられたが、年代が合わない歴史上の有名な仁徳天皇はこの名前を真似した人? と情報では伝えられる)

隣の村の者がこれらの出来事を小さな声で (隠れて) 語り伝えました。
それでそこの村は 「小呂」 と言うのです。
そしてその小呂の峠を通り抜けたところが 「白道路=ハソウジ」 と呼ばれるのは、そこを通ってこの物語が 「物部」 村に伝えられたからです。
(以前は白い者=ノアの息子の子供が掃除された=ハクソウジ=討伐された所と伝えられた。この隣がシガサトである)
物部村から出た人が、都でホシノミナとイシカミの物語を伝えてくれたのです。
それが物部氏です」

寝るも耳が痒くて目が覚める。
「もう少し書いて欲しいのです。
それは一番大切なことです。それは家のことです。 (なかなか言葉が出てこない)
家 (この地方の入母屋造りの農家) の形は、そのような形をして (ホシノミナが) ソラから降りてきたことを伝えているのです。そして (屋根の横の空気抜きが) 口の形をあらわしているのです」

寝るも歯がうずく。
「イシカミです。いろいろお知らせしてきましたが、私の話も聞いてください。
私は君山です。
“キミ” と言う意味はお知らせした通りです。
“キ” は、 紙に書いて綴じたもの ・「記」=知らせたことを伝えた事がとても大切と言う意味です。
“ミ” は、 人間は3位一体 【 肉体、イシキ、魂 】 から成り立っていることを知ることが一番大切と人間達に教えてきました。 それで “キミヤマ”
と呼んでもらったのです。それが私達イシカミの言いたい事でした。
ヒミコはそれで大国主のことを ‘わが君’ と呼んでいたのです。
私 (君山) がいつも私を信じる人にお知らせしたので物部氏の力が強くなったのですが、支配星に支配された者にはかないませんでした。 
そして完全に封印されたのです。
それでホシノミナを現わす家を作るように教え、屋根に口をつけ形に残し語り伝えて貰ったのです。テレパシーで伝えたのです。これが隠された歴史の一部です」

*) 君山とチャネリングをしていたのが “星述べ” と言われ、星野原、「星原」 の地名になった。


【お知らせ】 2002年1月21日    私市の円山古墳。
2002年1月18日 綾部に向かう車中にて。
私市円山古墳は誰を埋葬していたかを考えていた。
「あの丘の上にいる者で物部の守屋なり。
どこまでもウマヤドノミコ (聖徳太子) は追って来た。
何としても君山 (城山) の見える所に葬って欲しいと言っておいた。
けれども (敵に) 君山を気付かれては困るので、君尾山の見える所 (少し離れた所=私市) にした」

「物部の守屋がどうして (あそこに) 葬られたか、仲間がお知らせします。
小さな子供が星述べ (白い木の者) の子孫です。
物部氏が滅んだ後、その子供は信貴山に送られそこの僧侶にさせられたのです」
http://www.imedia-cs.net/~acci/index.html
http://www.imedia-cs.net/~acci/kanko/kisaichi/index.html
*) 物部氏は以前から綾部市物部町から出た人とチャネリングでは言われていました。物部は私市の近くにあります。

2002年1月19日  綾部にて真夜中
「丘の上の者です。 物部の守屋です。
いつになったらお知らせ出来るかと思っていました。
【守屋】  と名乗ったのは何故かというと、矢で持って子供をお守りすると言う意味で名乗りました。何故私のお墓が忘れられたかというと仏教のせいなのです。
それはとてつもない言い方で押さえ込まれたのです。
守屋についていた星述べの小さな子供 (白い木の子供) は、支配星に操られた者につかまり、信貴山の寺に送り込まれました。そしてその子供がそのお墓 (物部氏のお墓) を祭ると、死んでから救われないからと言わされたのです。
その代わり、家の屋根のところに口を現すもの (空気抜き) を作るように言ったのです。真実が隠された事を家は見ていたと言う事を現すためです。
家々にそのことが語り継がれていったので、この地方の家には口の形をしたもの (空気抜き) があるのです。
叉あの家はホシノミナをあらわします。
あの形 (三角) の反対の形で地球に降りてきたことをあらわしているのです。
茅 (カヤ) 葺の屋根も意味があるのです。
カヤの花 = ススキは、切るとすぐ枯れて白髪のようになります。それは人間の肉体もすぐ年をとることを現しています。
沢山のカヤで屋根を覆い年月が経つと葺き替えますが、人間の生まれ変わりと同じと言う事を現わしています」
(この地方の農家はカヤ葺きの入母屋作りで、三角の屋根の部分にひし形の空気抜きがありますが、それが丁度口のように見えます)


【お知らせ】 2002年1月28日    続・物部氏。
2002年1月21日
「お知らせするように星たちから言われました。
物部守屋が 蘇我氏の一族から追われたのです。それはいたいけな子供も一緒でした。
星述べの子孫を守るために、物部氏はホシノミナを目指したのです。
それは極少ない人数で人目を惑わすために、僧侶の身なりをして逃げました。
道中サンカに助けてもらいながらついにイカルガ兵が守る所にたどり着いたのです。
お墓に一緒に葬られていたのが星述べの兄の方です。
信貴山の寺に預けられた子供は弟のほうでした。
物部氏は殺されましたが遺体は残されました。
何故なら坊さんの姿をしていたからです。連れて行かれたのは身代わりの人です。
敵がいなくなってから丘の上に葬りました。
昔から丘は (イシカミが作ったと) 大切にされていました。
(私市円山古墳は) 人間が作った丘ではありませんでした」


【お知らせ】 2002年5月6日     綾部便り・その1
綾部に帰ってきましたが、読者の方 (Aさん、Oさん) が来てくださったので綾部をご案内しました。まず私が98年6月異常な体験をさせられた 【オオモト教の本部】 へ行き、次にに私市円山古墳に登ってきました。
【私市円山古墳】
古墳の頂上には大と中のお墓の後がありましたが、以前教えられたとおり、物部氏と星述べの家の者と言われました。
Aさんによると ‘丸山’ は大小対であり、大きい方で祭事? をして小さい方がお墓になっていることが多いそうですが、ここにもやはり隣により大きな丸山らしきものがありました。
次に物部氏が出たと言う物部町を通りましたが、その手前が 「舘=たち」 と言う所でしたのでひょっとしたら物部氏の館があったのではないかと思いました。

【才の藤】
丁度有路の藤祭りでした。古い巨木に見事に咲いていましたが、今の藤の花の房より大分短いです。白藤と知らされましたが、今は完全な藤色に戻っていました。
(白色は藤色に戻るそうです)
ここを祟神天皇の使い (四道将軍) が通った時、藤の根元の石を当時の老人が拝んでいたと書かれているように、根元にはおにぎりのような岩がありましたが、真中に地蔵らしきもの (道祖神=賽の神) が彫られていました。
古路峠を越えてシガサトの7(8)不思議の西方に寄りました。

【藤波神社】  (白藤)
ここの藤も白色が消えかけていると言われましたが数個の白い藤が咲いていました。

【たけのこ神社】 【みょうが神社】 【ゆらぎ松】 【しずく松】 は看板を見ただけです。

【若宮神社】  (白萩)
に寄りましたが忘れ去られた神社と言う感じです。
山彦が星原から山越えで逃げてきて殺され、ここに祭られたと知らされましたが、勿論何の文献もありませんが、この近くでシガサトの7(8)不思議が起こりました。
鳥居は下半分が3本に分かれた変わった鳥居柱ですが、3位一体 (肉体・イシキ・魂) をあらわしていると知らされました。
(ヤタガラスの3本足も関係する)

【白道路=ハ(ク)ソウジ】
星原から山越えした所で、星述べの者の一族を皆殺しにした場所と知らされました。

【小呂】
峠を越えると小呂で、 「小さな声で口から口へ」 とソラ物語を伝えたと知らされました。昔の人は星原の入り口からでなく山越えで小呂と星原を行き来していたそうです。

【ホシノミナジンジャ】  (星原)
以前にもお知らせしましたが、 「イワクラが無いためにすっかり忘れ去られた (=石なし)」 とホシノミナが嘆いていました。
寂びれた神社で “建物は見ないで下さい” と以前言われましたが、ここ (神社前の平地=田の所) にホシノミナが降りてきたそうです。
この地において初めてイシカミを現わすストーンサークルが作られましたが、ストーンサークルはヤマト? によりばらばらにされたが、真中の岩だけ奥の谷に辛うじて残して置いたと言われましたのが、高さ50cmくらいの石です。

【ストーンサークルのビジョン】
昔の人々はイシカミをあらわすストーンサークルの中へ入って、 “食物を与えてください” と一心に願ったのです。 固まって多くの人が念ずる事により願いがわかりやすくなリイシカミにつながる事が出来て、イシカミが願いを聞き届けていたのです。

【入母屋造りの家】
これまでの隠された歴史を伝えているのが入母屋つくりの農家の屋根の空気抜きだそうです。
「三角の白い壁に菱形の空気抜き」 が隠された 「真実を語っている口」 と知らされましたがこのような形の家は丹波地方独特の家です。
下半分は後年瓦になりましたが、上からトタンが張られていますが以前は下まで萱葺きでした。
Aさんが2回にわたり鮮明に夢に見られた内容と、これまで知らされた昔の風景と一致しているようでした。 夢で350円というのが出てきますが、
『ミゴト= (これまで夢をちゃんと知らせてくれている) 』
『ミゴロ=  見頃がちょっと遅れましたが、殺された山彦を偲んで真っ赤な霧島つつじの古木が数本あります』
http://ishikami.jp/tyousa2002/ayabe1.html


【お知らせ】 2002年5月6日     綾部便り・その2
98年6月にチャネリングで言われるまま行った所は農道で、クワで削ったようなサークルが書いてある所があり、あることをさせられました。
(体験参照)
その場所を見に行きましたが、勿論何もない農道でした。
その裏に12個の丸い塚があり古墳の発掘をされたそうで、刀などが出てきたそうです。
その近くの 「イシイネ 」  と言う所は今は高速道路が通っていますが、60年程前には大きな岩があって発破をかけて道路を広くしたそうです。
(巨石があった所)

次の日Aさんはその少し離れた 【ヒヤソ踊り】 をする高倉神社に行かれたとメールが来ました。
『次の日、高倉神社に行きました。
(後白河法皇の第3? 子の) 高倉宮を助けた12人の武士を祭った12社神社が脇にありました。12の古墳はそれでしょうか。
高倉神社の背後に地主神社があり、城山より少し左側方向を向いていました。
磁石を持っていかなかったので違うかもしれませんが、星原方向を向いているのではないですかね。城山 (=君山) は神社脇から行けば登れそうな感じでしたが、タクシーに待ってもらっていたため断念しました。 高倉公園の道路に面した所に大きな岩がいくつか置いてあったのがタクシーで移動中に見え、気にはなったのですが通り過ぎてしまいました。
古墳の巨石と関係していないでしょうか?』

その日の真夜中に知らされた事です。
「(12士の) 12人はよい人です。
白い木の者を守ってヤマト? の人と戦った人です。
昔、イシイネは山と川で通るのに一番の難所でした。
いわばそのために小呂と星原は、山で囲まれた安全な所だったのです」
(その場所で巨大な岩の横を川が流れている夢を見たことがあります)


【お知らせ】 2002年5月6日    六甲山、元伊勢皇太神社。
2002年5月2日
「六甲の山と言われるもの (イシカミ) です。
(い手座の) 女王の妹でした。仲間と共に (地球に) 降りました。
私を信じてくれた人 (大石クラノスケ) が辛い思いをさせられたので、女王 (ご在所岳) の所に行くように言いました。
(*  大石クラノスケはご在所岳の麓の湯の山温泉に滞在したそうで、大石公園と言うのがあります)
仲間が作った岩 (生石神社) の意味を、世に知らせてもらい嬉しく思います。
ホシノミナの星原に行く事が出来るようになり嬉しく思います」

注): 生石神社 (=石の宝殿・加古川市) の岩はTVの形をしていますが、イシカミは将来こういう形のものが出来ることがわかったそうです。0さんは六甲近辺の方です。

次の日再び
「大石クラノスケは部下の1人に秘かに仲間から離れて、イカルガに行くように金子を渡しました。
その金で田畑を買って (シガサトの7(8)不思議の) 藤波神社を守るように言いました。
そして大江山の元伊勢 (皇太神社) も守るように言いました。
元伊勢に祭られている神こそ本当の神であると教え、人々に元伊勢に行くように奨めて欲しいと頼みました」

注): 元伊勢の日室が岳は見事な三角山でピラミットと言われているが、まさにイシカミが作ったもののようで河原には奇岩が多い。
情報ではノアの息子が大江町の毛原で殺されたと言われ、ノアの息子とその部下を祭ったものであると知らされました。人間を祭っていたが時が過ぎて、
神として祭られるようになったここは “日本で最初の神社” と知らされました。
一つだけ大きな祠があり、沢山の全く同じ大きさの祠があるのは、ノアの息子とその部下なので同じ大きさのが沢山あると思いました。


【お知らせ】 2002年6月19日   京都
2002年6月17日 真夜中
魔を封印すると言って、これまでは他の宗教が 「石」 を封印してきました。
「京都の町は、イカルガを封印するために作られた都です。
イシカミを守り伝えた星述べ (物部氏なども) を抹殺し封印しても災いが起こる度に、そのお知らせでないかと怯えていたのです。
それで一生懸命支配星に教えられて、石のある所や星述べに関係がある所に建物を建てたり佛像を置いたりしてイシカミを封印して回ったのです」


【お知らせ】 2002年9月8日   3柱神社など。
【春日富士】
同行者が以前この横を通った時何か変な感じがしたそうですが、それは物部氏の一族が戦ってここで殺された、と降りて来て知らせた所でした。三角山で中腹に巨石が積み重ねてありました。

【君山】 星原にて。
君山に登ろうとしたが、木が生い茂り登れなかった。
「キミ山です。せっかく来てくれたのに大人になり毛 (木) が生えて邪魔をしてすみませんでした。
何もかも見ていました。私を思ってくれる気持ちがよく分かりました。
私は (巨) 石の無いものですが、今日はホシノミナジンジャの屋根をきれいにしてくれてて嬉しく思いました」
(ホシノミナジンジャは屋根の吹き替えがされていた)

【3柱神社遥拝所】
白道路にて。同行者が白道路 (ハソウジ) の道端の気付かないくらいの鳥居 【夢】 で見て気になるのでと立ち寄る。
↓ はその事を知らせてくれたメールです。
《夢の中で君山に行く途中に三? 神社の鳥居があり、そこに入ろうとしたところで目がさめていました。この間、綾部方面に遺跡調査に行く機会があり、夢で見た道筋を辿ってみたところ、そこにはやはり神社がありました。鳥居の額もなく、何神社か分からないくらい忘れられ去られたものでした。
お社は稲荷神社となっていましたが、その横に立っている柱を見ると、なんと三柱神社遥拝所となっており、もともとは三柱神社だったようです。遥拝所なので、ここから何処か別の場所をお参りするための場所だったようです。
夢の中では鳥居の額が金色に光っていて、参道の木も立派だったので、昔は大事な場所だったのかなと思います》

「こころざし半ばで散った山彦です。
ご案内しますのでお待ちしております。
3柱神社とは、ヒミコの櫛を真似た鳥居なのです。
(少し離れたシガサトの若宮神社などは下半分が3本です)
それをあそこ (白道路) に作って祭っていました。
“星述べ”を信じる者達があそこ (三柱神社) でお祭りをしていました。
けれども物部氏が滅ぼされてからは稲荷神社の形に変えられた。近くに観音のお蔭を説く仏教が広まり庚申も入り込み (石に書かれていた) 忘れ去られて行ったのです」
(ここを訪れてくれた方は2回星原の夢も見て現実と一致していました)


【お知らせ】 2002年9月12日   ホシノミナジンジャ、石観音など。
【ホシノミナジンジャ】
君山の麓近くにあります。
私が子供の頃突然の大雨で、ホシノミナジンジャの境内の建物で雨宿りをしていた時、数え切れないほどの稲光 (=白い木) がすぐ向かいの山に降りていました。
落雷で木が燃えるでないかと思えるくらいでしたが、白い稲光 (=白い木) が目の前に次々と降りて来た光景は未だに鮮明に覚えています。

98年位に続けて見た 【夢】 です。
《神社の前の電信柱が倒れて道をふさいでいるので、仕方なく神社の境内の坂道を登っていく》
《神社の階段途中に人が倒れていてその人を助けてあげなくてはと思っている》
と言うように私のイシキ(霊)は、夢で何とかホシノミナジンジャに気付いて欲しいと思い夢を見させたと思いました。
今回神社を訪れて思い出したのは、神社の近くの小さな橋の下を通って川上に行く夢でした。 イワクラが無かっので忘れ去られた神社だと嘆いていましたが、前に花壇が出来たり、建物は見ないで欲しいと言っていましたが、それでも屋根が葺き替えられたことが嬉しいとも言っていました。

【三方石観音】
境内やその奥には巨石がゴロゴロしていました。
石観音はたまにしかご開帳されないそうで、やはり戸で塞がれていました。
その前には何かの仏像? が置かれていました。
裏に回ると大きな三角岩が屋根で覆われ一部に石観音が彫られていると思い、
まさにこれも宗教によるイシカミの封印と思いました。

【奈良のお水取りの水源の神社】
向かいにはやはり三角山がありました。ノアがお水を飲んだと知らされましたが、
水を東大寺に運び支配する事で肉体を支配する水をも支配したと知らされました。


【お知らせ】 2002年11月6日   山彦、白い表皮の木。
「白い木の者が降りてきました。 山彦です。
イシカミの君山に呼ばれて (マナイの海辺から) 星原に来ました。
おじさんとおばさんと (星原で) 一緒に暮らしました。
君山から教えてもらった事を話すと多くの人が来ました。
そして頼むといろいろな食べ物がもらえることがわかりました。
殺されたお父さんの毛を・・・・ (字がダブっていてわからない)
ホシノミナを大切にしなければならないと皆に言いました。
そして君村 (吉美村) の長 (オサ) になりました。
私がヒヤソ踊りを踊るように頼んだのです。
私は戦う事ができなくすぐに殺されました」

白樺などの木の皮が白いのは何故かと以前聞かれていた。
「いにしえには、イシカミである山の奥深くに入っていろいろな物を貰っていました。
夜帰りが遅くなり道が分からなくなる時に、白い木が道しるべになるように作られました。白樺が寒い地方に多いのは寒い地方では山で夜を過ごせないからです」


【お知らせ】 2003年2月13日   地蔵、合掌。
【6地蔵】
ヤマトは仏教徒を増やすために、孤児を僧侶にしたり、子供の僧侶なら憎まれないと思い、 (一休さんのような) かわいい子供の僧侶の姿で仏教を広めさせたのです。
書いていると足にサインがあり、物部の守屋が降りてきました。

「それを言いたかったので降りてきました。
仏教徒を増やすための方法でした。
仏教を信じないと地獄へ行くと、子供の頃から脅かし続けたのです」
(* 6=、イスキリが6亡星・ダビデの星 の6は良い数字と言っていたため、その数字を当てはめたそうです)

【手を合わす=合掌】
「それは良いことではありません。
人間の身体はソラからエネルギーを送り込むようになっています。
ソラからのエネルギーは頭の上から入り、手と足から流れ出るように作られました。
手を合わせることで、その出て行こうとするエネルギーが、又反対の手を通って戻ることになります。それでエネルギーはぐるぐると肉体を循環して、ソラからのエネルギーを受け入れることが出来ません。
頭の上からエネルギーが入り身体を通り、手と足から出て行くイメージをする事は肉体の細胞が喜びます」


【お知らせ】 2004年1月31日   物部守屋の最期。
2004年1月30日夜
「私は物部守屋です。
私は、星述べの者が何か知らせてくれる事を皆に知らせる役でした。
知らせる事は農業の事で、仲間に教えていたのです。
いつ種を蒔いて、いつ何をするかという事を知らせていました。
それは星述べの者が、君山に教えてもらっていたのです。
そして皆仲良く暮らしていました。
ある日の事仲間が、こちらに軍隊が来ると知らせてきました。
見ると沢山の人がこちらに攻めて来るのがわかりました。
けれども、星述べの者は殺し合いをしないでと言いました。
(ビジョン、 “数十小さな棒が集まっている”・・「どう書いたらいいか分かりません」 と)
 
物部守屋と星述べの者は、信貴山に用事があるから出掛けると言いました。
それで仲間の人と一緒に信貴山に向かいました。
けれどもそれを知った聖徳太子は知らせる事無く、突然星述べの仲間を殺し始めたのです。
それで私達はそこを逃げ出し川 (大和川?) の船に乗り逃げ出しました。
神戸に着き、そこからは追っ手に見つからないように僧の姿をして逃げました。
(“神戸” とは仏教に反対していたが、仕方がないので僧の姿をしたということで、神の戸を閉めてもらったという意味です)

けれども追っ手は春日富士まで追ってきて、物部守屋を殺してしまいました。
仲間は遺体をイカルガまで運び、私市円山古墳に葬りました。
星述べの者はホシノミナジンジャの前で亡くなり、守屋と一緒に葬られました。
そして仏教の勢力が広まりその古墳を祭る事を禁止し、長い年月で忘れ去られたのです」

《まとめ》
イカルガの物部村の物部守屋 (イシカミ系) は、 星述べの子供の後見人であった。
星述べの者はイシカミの君山からチャネリングで農業の事を指導してもらい、それを皆に知らせていたので大きな国になって行った。
あるとき突然ヤマトが攻めてきたが、争う事無く、ヤマトにあるイシカミの信貴山 (のイシカミ) にどうすればいいか聞きに行った。
そこへプレアデナイ (仏教系) からチャネリングを受けていた聖徳太子が攻めて行ったので、星述べの者と物部守屋は、イカルガ (旧綾部) へ逃げ帰ろうとする。
逃げる時には大和川を下リ船で神戸に向かい、神戸からは敵の服装の僧の姿で逃げた。 その事を神 (イシカミ) に知られたくないので、 “神の戸を閉じた”
と言っておいた。
イシカミの (分身の) 「春日富士」 で物部の守屋は殺され遺体は私市円山古墳に運ばれ、星述べの者は君山の麓のホシノミナジンジャで亡くなり私市円山古墳に一緒に葬られたが、仏教の支配が強くなり次第に忘れ去られて行った。
《要するにこの時点で、より強力に人間を支配していたプレアデナイが勝ち、人間の為に食べ物や知恵を与えていた射手座のイシカミが封印されてしまったと言う事です。》
http://www.imedia-cs.net/~acci/kanko/kisaichi/


【お知らせ】 2004年3月12日    蘇我氏、八咫烏の意味。
2004年3月12日寝る前に、蘇我氏の邸宅の跡が出てきたというニュースを見て寝たが、真夜中、
「お知らせします。ソラのものは見ていたのです。
一番最初に巨石 (石舞台?) を自分のお墓にしたのが蘇我氏なのです。
イシカミの子供が昔に作った石室を自分のお墓にした人です。
そして土をかぶせさせたのです」 寝る。

「蘇我の秘密です。
蘇我氏とは、イカルガ (旧綾部) の名前をヤマト (奈良) へ持って行った人です。
【イ(祈ると) カ(力がもらえ) ル(膝をついて) ガ(力が沢山もらえる)】  
イカルガとはそう言う意味です。
そして本当にプレアデナイ (仏教) に祈る事で大きな力を得ていたのです。
奈良で (蘇我氏の) 住居跡が出て来ましたが、その大きさでいかに民衆から搾取していたかわかるでしょう。
それまではあまり貧富の差が無かったのに、自分たちだけが贅沢な暮らしを始めたのです。
イシカミをいじめた人で、地球の贈り物を貢がせ贅沢をした人です。
(物部守屋を滅ぼし、その) 娘を略奪し子供を無理やり生ませ、物部の人気を得ようとしました。
見つかった邸宅跡は、その娘を閉じ込めていた家でもあるのです。
ヒミコの娘と同じ悲劇が行われた家なのです。
そしてその間に (蘇我氏は) あらゆるストーンサークルを壊してしまったのです。
ヤマトが都として益々栄えたのは、お供えすると死んでから良い所に行けると信じさせ貢物をさせていたからです。
http://www.harimaya.com/harimaya/asuka/isibutai.html

それでも仏教が嫌な人達は、秘かに大国主や物部氏の神社を建て、作物が良く出来るように頼んでいました。そして何よりもそれまでのことを語り伝えたい、といろいろな形で隠れ伝えてきました。
その一つが  “ヤタガラス=八田ガラス” です。 八田とは、大国主の家来が “8人” だった事、 大国主が “田” を作ることを教えた事を表します。
イシカミを地球へ先導をしてきたカラスが3本足に描かれています。
(三位一体を表すとも)   
 
1、一つは“トヨウケを祭った真名井神社=マナイ”への道
2、一つは“オオシアマノサト(凡海郷)=舞鶴”への道
3、一つは“由良川沿い=倭の国”への道

それが一つに交わる所にある道路で、三柱神社近くの三叉路 (綾部JCの近く上八田) が、ヤタカラスの3本足を表す所なのです。それが八田カラスの3本足を表す所なのです。未来の見えたイシカミが名付けさせたのです」
(八咫烏のことはこれまで何度も尋ねられ、聞いてみましたが答えがありませんでした。ヤマトによって後から当て字をされた)

注: 【八咫烏】 記紀・風土記に見えるカラス
神武天皇東征の途中、熊野から大和への 道に迷 った時に天上から派遣されて案内をした。  [新辞林 三省堂]
http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=35.20.0.420&el=135.15.28.355&l...


【お知らせ】 2004年3月16日  サッカーシンボルのヤタガラスの意味。
【ビジョン】
“茶色の大きな丸の上に亀甲模様の道路のような模様があり、あちこちで真っ白な小さな光のようなものが見える”
意味は
「亀甲模様は亀=イシカミを、丸いのは地球で、サッカーボールをあらわしています。
道路のようなのは繋がりを、白い光は八田ガラス (ヤタガラス) はソラからの情報を知らせる先導役をあらわします。
(3月12日のお知らせ参照)
3本足のヤタガラスは日本のサッカーのシンボルであり、(三位一体のソラ情報が)  サッカーを通じて世界に広まるようにソラのものは願った光景です」

サッカーの始まりは、地球のイシカミを自由自在に操るスポーツとして、考えられたと伝えられましたが、それが世界中の友好親善の役をするようになりました。ソラから伝えられるこの情報は地球平和の為に知らされていると伝えられています。
隠されたこれまでの歴史をこの情報によってしっかりと認識していただければ、
イスラムの教え 【目には目を、歯には歯を】 の本当の意味を理解する事が出来、その意味が広まると地球平和が訪れると思います。
因みにイスラムの教えを、情報では 【歯】 は食べ物を、 【目】 は見て美しい物をと言われ、 【地球の贈り物を独占しない】 というのが本当の意味です。
後年の支配者によって意味がすり変えられたと、早くより伝えられています。
イスラム世界だけでなく、“王制”(天皇制も含む) の見直しをする事が大切ということを知らせているのです。

日本のサッカー協会は3本足の “八咫烏” をシンボルマークとしています。
奇しくも今日の新聞にユーゴーのピクシー (サッカーの元グランパスエイトのストイコビッチ) が、旧ユーゴ地域の復興について話し合うための会議に平和大使として起用されたと報道されていました。
私事なのですが、豊田にいる時たまたまピクシーのお別れ試合のチケットが手元にあり見に行きましたが、あの熱意が世界平和の為に使われると素晴らしいなと思いました。
ヤタガラスは、本当は “ハチタガラス” と呼んでほしいとも。
http://www.jfa.or.jp/outline/index_new.html



mailto:slicer93@yahoo.co.jp