794年・・・鳴くよウグイス平安京
710年・・・なんときれいな平城京
ここまでは、多くの方が知っている年代のごろ合わせ。
しかし、こんなのもあります。
【694年・・・向くよそちらに藤原京】
藤原京は、遷都されたのが694年で、
日本最初の本格的な条坊制(じょうぼうせい)を布いた本格的な都城です。
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この藤原京は、持統天皇によって建設され、
北に耳成山、西に畝傍山、東に天香具山という大和三山に囲まれています。
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しかし、、、あまり知られていないのですが、、、
実は、この藤原京の周囲には、陰陽道的にとんでもない仕掛けが施されていたりします。
それを目の当たりにすれば、、、
日本と言う国家の"知られざる実像"が、分かるかも・・・しれません。
また、今回の記事は、今後の日本の将来を解く上での布石の記事の一つです。
これについては、またおいおい話しますが、
陰陽道的な仕掛けは、この藤原京にのみ仕掛けられているとは限らないからです。
本日は、『藤原京に隠された図形』についてです^^;
耳成山(みみなしやま)の周囲に隠された、人体パーツ
奈良県橿原市にある標高は139.6メートルの小高い山。
それが、藤原京の中心にそびえる"耳成山"です。
▼耳成山
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耳が成ると書くのに、なぜか、読みが"みみなし山"という、何かおかしな山です。
この名前の由来としては、そのほぼ円錐形の余分なところがない(耳がない)ことから、
この耳無し山という名前が付けられたそうです。
しかし、、、
「Wikipediaの耳成山」の項目を見ると、面白い事が書いています。
耳成山の麓にはかつて「口無しの井戸」、「目隠し川」があったとされる。
うん???
耳無し山の麓には、口無しがあるだけでなく、目隠し川まである???
まるで、これは、、
、
『見ざる・言わざる・聞かざる』、、、のようではないですか。
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古代の飛鳥の民は、一体何を考えて、こうした地名を名付けたのでしょうか?
実は、こういう事を、探っていくと、
耳成山の位置関係に、ある特徴的なモノが見えてきます。
先ほどの藤原京の中での耳成山の位置をよくご覧下さい。
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実は、ご覧のように、藤原京の中心部で、一番真北の位置にこの耳成山が存在します。
そして、耳成り山周囲にある、口や目に関する地名・・・
こう言うところから推測すると、、、
もしかすると、古代人は、藤原京を、人体と同じに見立てていたのではないか?
こういう推測が出来る訳です。
耳成山が、耳に該当し、「口無しの井戸」、「目隠し川」が周囲にあると言う事は、、、
耳成山が、頭部だと言う事は、まず間違いないでしょう。
では、その他の手や足、胴体などは、あるのでしょうか?
率直に答えを、言ってしまいますと、、、実は、あるんです。
しかも、藤原京の遷都後からしばらくした後、、、
平城京の建造が為された後の時代になって、手や足や胴体が作られています。
なんだかおかしいですよね。
考えて見れば、藤原京に遷都されたのが694年で、
平城京遷都が710年ですので、その間が、わずか16年です。
わずか16年で都を移動すると言うのは、なんだかおかしい気がします。
いったい、当時何が起こっていたのでしょうか?
そして、藤原京に隠された人体と何か関係あるのでしょうか?
それを解くためには、当時の権力者の思惑を読み説かねばなりません。。。
石上麻呂(いそのかみのまろ)と藤原不比等の勢力争い
実は、この694年の藤原京の遷都から、710年の平城京遷都の背景には、
当時の時の権力者であった、二人の確執があります。
一人は、石上麻呂(いそのかみのまろ)です。
▼石上麻呂(いそのかみのまろ)(640〜717年)
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彼は、石上という氏姓ではありますが、
元々は物部氏の一族で、物部宇麻呂の子です。
もう一人は、藤原不比等(ふじわらのふひと)です。
▼藤原不比等(ふじわらのふひと)(659〜720年)
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実は、この藤原京遷都と平城京の遷都の間が16年と短いのには、
彼らの権力闘争が背景にあり、遷都が政治目的に利用されているのです。
どういう事か、詳しく説明します。
元々、石上氏は、物部氏を祖先とする、日本古来から続いている権力者の系統でした。
石上麻呂(いそのかみのまろ)は、この物部氏一族の首領ですが、
一時期は、672年の壬申の乱で敗北した「大友皇子」側についたことで、
一旦は、権力の座から、退く事になります。
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【上記画像は壬申の乱より】
しかし、壬申の乱で勝利した「大海人皇子(後の天武天皇)」が、乱の終了後、
なぜか、敗者であった石上麻呂を重用することになるのです。
その理由は、未だ明確には分かっていませんが、、、
ここに何らかの意図があったのは事実だと思います。
Wikipediaには、、、
【天武天皇に起用された理由は、最後まで従った忠誠を評価されたため】
・・・と書かれていますが、そんな甘っちょろい理由で、重用される事はまずあり得ません。
まぁ、上記の件は、管理人も詳しくは分からないので推測になりますが、、、
恐らく、当時勢力を誇った物部氏一族に、全面敵対する事態は避けたいという、
大海人皇子の政治的な思惑が働いたのではなかろうか?と思います。
ともかく、この壬申の乱の後、石上麻呂は、とんとん拍子で出世していきます。
- 天武天皇(673年3月20日-686年10月1日)の時代には、朝臣の姓を与えられ、
- 持統天皇(690年2月14日-697年8月22日)の時代には、天皇の即位式にも携わり、
- 文武天皇(697年8月22日-707年7月18日)の時代には、右大臣にまで任命されます。
この右大臣に昇った704年頃が、石上麻呂の最も華々しい時代だったのかもしれません。
一方、その頃に、メキメキ頭角を現してきた人物がいました。
もう一人の権力者であった、藤原不比等です。
彼は、石上麻呂が武骨者だったのに対し、
徹底的な合理化政策で、天皇の庇護を受け、急激にのし上がっていきます。
そして、和銅元年(708年)1月11日、、、
ついに地位の面でも、2人が同列になってしまいました。
この時、石上朝臣麻呂は藤原不比等とともに、同じ正二位に叙せられています。
しかし、同列と言っても、勢いの面では、藤原不比等の方が勝っています。
したがって、この頃、政治の実権は、既に藤原不比等に移っていたと思われます。
そんな時に、落ち目の石上氏を徹底的に叩き潰すための政策として、打ち出されたのが、
何を隠そう、、、【710年・・・平城京の遷都】という、一大事件だったのです。
なので、単なる、都替え、、、という視点で見てはいけない訳ですね^^;
藤原不比等としては、旧来の物部氏勢力が根付いていた藤原京よりも、
新しい土地に都を移した方が、権力の実権をより確実に出来ます。
だからこそ、わざわざ、16年間という短い間に、平城京に移っているのです。
これが、藤原京と平城京の遷都の間隔が、極端に短い理由です。
廃都に留まった石上麻呂・・・そして、藤原氏に施された呪い
平城京に遷都をした後の、石上麻呂はどうなったのでしょうか?
藤原不比等の主導による平城京の遷都に、
石上麻呂が乗り気ではなかった事は明白です。
和銅3年(710年)3月10日、都が平城京に遷ったとき、
石上麻呂は、旧都の留守役を務めています。
つまり、廃都にされた藤原京で一人遺る・・・という決断を彼は下しているのです。
天皇やその皇室の一族は、新しい都に移る中、
彼は、寂れ廃れた藤原京で、いったい何を思っていたのでしょうか?
政敵であった「藤原不比等、憎し!」という想いが、少なからずあった事は確かです。
なぜなら、この政権交代は、物部氏一族の存亡もかかっていた訳ですから。。。
石上麻呂は、物部氏の代表です。
その彼が追いやられたと言う事は、物部氏一族の衰亡を意味するのです。
そして、そういった想いは、やがて、物部氏復権のため、、、
廃都藤原京を使った、壮大な呪術機構が施されていくことになるのです。
春日神社とオリオン座のネットワーク
実は、この耳成山周辺には、多数の春日神社が存在します。
ぱっとGoogleMapで春日神社で検索して見ると、
下記のように、わんさか出てきます(汗
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なぜ、このように耳成山周辺には"春日神社"が多く存在するのでしょうか?
とても、不思議です。
また、この春日神社は不思議な構造になっています。
通常神社は、南向き、もしくは、東向きに本殿が建てられているのが普通です。
ところが・・・奈良の春日神社に関しては、拝殿の向きがバラバラなのです。
しかも、春日神社を良く見ると、それぞれの神社の拝殿方向の先には、
もう一つ別の春日神社があるなど、ネットワークを形成しているように見えるのです。
こうした考えを元に、それぞれの春日神社をラインで結ぶとどうなるでしょうか???
実は、こうなるんです。
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※地図上には、新しく出来たものや他の春日神社も混在しているようなので、
上記が完全には、正しい作図でない可能性もあることをお断りしておきます
いかがでしょうか。
剣と楯を持った、一人の人間に見えませんか。
そして、これは、まさに冬の大星座、「オリオン座」のように見えませんか?
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なぜ、奈良と言う時代に置いて、ギリシャ神話のオリオン座が出てくるのでしょうか?
非常に、解せない部分です。
しかし、良く見ると、、、
オリオン座と藤原京の人型を見ると、盾と剣(こん棒)の持ち方が逆のように見えます。
これはいったいどういう事か?
実は、これについては、地名で、その謎解きが出来ます。
最初に、管理人はこう紹介しました。
【耳無し山の麓には、口無しがあるだけでなく、目隠し川まである】
耳が無い、口が無い、目隠しをしている、、、
つまり、この地名をもってして藤原京の人型は、逆向きである・・・
と言う事を、暗に示している訳です。
つまり、藤原京の人型は、うつ伏せの状態の絵な訳です。
だからこそ、オリオン座の星座とはまるっきり逆の構造になっている訳ですね^^;
・・・しかし、なぜ、石上麻呂は、わざわざ、こんな地上絵を描いたのでしょうか?
それに、なぜ人型をうつ伏せにして書いているのでしょうか?
藤原氏との政争に負けて復権を期した、石上麻呂は、
単なる、お遊びで、この人型構造を作った訳ではありません。
そこには、壮大な企みがあり、、、
この構造こそが、藤原氏を追い落とすための壮大な呪術機構になっていたのです!
いったいこの地上絵が表す呪術とは、どんなものだったのか?
そして、この地上絵が施された結果、日本の歴史はどう変わったのか?
実は、これを解き明かすと、
奈良時代における、裏歴史の一幕が、解けてしまうのです^^
そして、この事を理解すれば、、、
"現代"にまで通用する、陰陽道の呪術的側面を知る事になるでしょう。。。
↓例えばコレ。。。
もし、単なる電波塔ではなく、日本を潰すための、
壮大な呪術機構の一部だとしたら、あなたはどうしますか?
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世の中には、一般市民に知られずに行われていることがあります。
管理人は、単なる過去の謎解きのためだけに、この記事を書いている訳ではありません^^;
今書いている事は、この先の大事な謎解きのための布石、、、です。
まだまだ、話さないといけない事が山ほどあります。
次回は、「藤原京に隠された謎A」として、
藤原京に施された呪術機構の仕組みと、その結果などについてお話します。